入社してまだ4ヵ月の頃、タグボート会社に7400万円を融資する仕事を任された。この会社がどういう取引をしていて、今後の成長性はどうなるのか。財務面はどう変化するか。タグボート業界のなかでの位置づけはどうなっていくのか……。そうやって融資するプロジェクトが成立するかを徹底的に検証して申請書を作成するのだが、いきなり一人で審査を通せるわけはなく、研修を受け、審査部から徹底的にダメ出しを受けながら申請書を書き上げた。審査部の人に「大変よく書けている。融資を1年やった人と同じレベル」とほめられて、とても嬉しい気持ちになったのはいまでもよく覚えている。

 入社3年目の1991年、八尋さんは行内の留学制度を利用してロンドン大学のLSE法律大学院に留学した。1993年のEU発足を控えた時期で、国と国を超えた共同体における政策立案と各国の政策の関係がどうなっていき、企業活動にどんな影響を与えるのか。それを学ぶのは銀行としても面白いということで許可された。

 翌年、修士号を取得し帰国した八尋さんが配属されたのは、企業金融部に新たに設置されたマルチメディア室だった。マルチメディア時代の到来で大手自動車メーカーや電鉄会社、電力会社などが情報・通信分野への参入を検討していたこの時期、顧客企業と一緒に次のサービスを考え、そこにファイナンスをつけていくのがマルチメディア室の業務であった。この異動がその後のキャリアの方向性を決定づけた。

八尋さんは留学から帰国後、新設のマルチメディア室でトヨタ自動車のITインフラの礎を作るプロジェクトに関わった

 ここで八尋さんは担当者の一人として、トヨタ自動車に対し長銀総合研究所のコンサルティングチームとともに「ITの専門会社をつくったほうがよいのではないか」と提案した。それがトヨタで議論され具体化されたのが、トヨタデジタルクルーズの設立だった。長銀も出資して誕生したこの会社は現在、トヨタのITインフラを担当する存在になっている。

 もちろん一人で切り盛りしたわけではないが、20代の若手社員が関わる仕事としては非常にスケールが大きい。なぜそれができたかといえば、長銀がグローバルで先端的な事業に携わっていたことがあると八尋さんはいう。

「長銀はアメリカの銀行のおこぼれのような仕事ではなく、アメリカの銀行もしないようなところにファイナンスをしていました。その頃、アメリカでは通信会社やケーブルテレビが拡大しており、そこにコンテンツを降らせるメディアコンソーシアムと呼ばれる大会社がどんどんできていました。そこに最もプロジェクトファイナンスをできていたのが長銀です。ジョージ・ルーカスのルーカスフィルムのファイナンシャルアドバイザーにもなっていました。で、ニューヨークやシカゴにいるファイナンスチームの人たちがそうしたトレンドを教えてくれたり、それを踏まえて日本のマーケットだったらどんなことができるのかと議論してくださったりしたんです。年次がこんなに違うのに、みたいな気安さで。そんな余裕が当時の長銀にはありました。私はまだ入行間もない銀行マンでしたが、先輩方にかわいがっていただいたおかげで必要な情報の入手や分析ができたんです」

 もう一つ八尋さんが指摘するのは、長銀とトヨタとの歴史的な関係性である。まだ戦後間もなく国全体で資金が足りず、銀行がどの企業にいくら貸すのかを日銀に提出して了承を得ないと融資ができなかった時代に、トヨタが乗用車工場をつくろうとしたが日銀の反対にあったことがある。しかし自動車の時代が到来することを予測していた長銀の担当者は「それは違う」と考え、トヨタの工場にこもって生産技術を徹底調査し、それを日銀にぶつけて融資にこぎつけた。銀行が日銀に逆らってまで融資した形で、そんな経緯から長銀は地場の東海銀行に次ぐトヨタの準メインバンクになっていたという。

「そんな関係があったおかげで、私は新しい仕事をできました」

 もちろん個人の努力もある。八尋さんは1996年にロンドン市立大学に2度目の留学をしている。以前は別物だった放送と通信がIT技術の進歩で融合し、政策的にもメディアとコミュニケーションを一緒に考えたほうがよくなった。このテーマに最先端で取り組んでいたのがイギリスの産業政策で、その議論をリードしている人物がこの大学にいた。先進的な産業政策や、マルチメディアやITによって世の中がどう変わるかを学ぶための留学だった。