「いま言った、手が届きそうなものが見えている時とはどんな時なの?」

「そうですね、例えばアリサさんが明日いきなり司法試験を受けるとしましょう。どうなると思いますか?合格できそうですか?」

「えっ、無理無理、絶対無理でしょ。何の勉強もしてないし」

「合否結果に対して、不安になりますか?」

「いや、はなから無理だってわかっているから不安とかいうレベルの話ではないかな……」

「そう、それです。人は、明らかに無理だとわかっている、手の届かないことに対してではなく、自分に手が届きそうなことに対して、不安を抱くのです」

「手が届きそうなことに対して?」

「そうです、では受験に例えて話しましょう。アリサさんは近い将来、自分の第一志望の大学に合格出来ると思いますか?」

「うーん、わかりませんがさっきよりリアルですね」

「じゃあ実際に入試を受けたとして、合格結果に対して、不安になると思いますか?」

「そうですね。それはなる、かな」

「アリサさんの将来がかかっていますもんね。そしてそれと同時に、自分の中でまだ勝算があるから不安になるんですよ。
 もちろんいままで行ってきた努力を無駄にしたくないという気持ちも働いて、より結果にこだわってしまうという心理もあると思いますが、手が届きそうな可能性を感じているから不安というものは生まれるんです。
 うまくいく可能性を描いているからこそ、うまくいかない可能性があることに不安を感じているのです。不安というのは、なにもよくないことではなく、可能性があるということの表れでもあります」

「なるほど、うまくいく可能性があるから……」

「はい、例えばテレビでいつも見ている憧れの男性アイドルに“好きです!”と手紙を送るとしますよね、相手が気持ちに答えてくれるかどうか、不安になったりしませんよね?」

「そこで、期待してたら、私やばいやつですよ」

「では、好きな先輩に“好きです!”と手紙を送る場合はどうでしょう」

「それは、気にしてないふりをしても内心バクバクなんじゃないかな」

「可能性は僕たちに夢を見させるぶん、不安にさせる。そして、不安だらけの人生の中で、自由から逃げ出すことなく誠実でいなければならないんですよ。
 不安から逃れたいという目的で、道を選んではいけません。不安と誠実に向き合う。不安に左右されて、自分を騙してはいけません」

 キルケゴールはそう言うと運ばれてきたお茶をすすった。

 私も、お茶を手にとったが、思いのほか熱くて冷めるまで待つことにした。

 窓の外からは、ただ静かな雨音が聞こえていた。

「アリサさん、この先不安に襲われることがあっても、自分を捨てちゃいけないよ」

「なんですか、またその尾崎豊みたいなフレーズ……」

「僕は“非本来的な絶望”と呼んでいるんだけど、人は、自分が絶望していると気づかずに、絶望していることがあるんです。
 自分が絶望していることを自覚しているなら、まだマシだ。けれども、自分が絶望していると自覚せずに、絶望している人はたくさんいるんだ」

 私は、キルケゴールのこの言葉に、一瞬胸が詰まる。

(つづく)

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある