しかしながら、今日の現状では、自宅で寝たきりのお年寄りの医療介護は不可能に近く、お医者様の勧め以外の選択肢は皆無に等しい。意思疎通ができないまま、強制的に栄養チューブである胃管から栄養分が与えられ、インフルエンザワクチンをうたれ、人間らしさとはかけ離れた形で経済負担が続くかぎりの“収容生活”が始まる。
そんなある日、知床半島の自然を映し出すテレビ映像を見る機会があった。「知床はオホーツク海に向けて尖がったシダの葉の形で、半島には左右に何十本もの川があります。毎年、川の上流へ向けて、数百万ぴきの鮭が産卵にやってきて…」とナレーションは続く。

「川の上流で産卵した卵が稚魚となり、川を下って海へ出ます。そしてベーリング海峡にそって外遊魚として2年間、たくましく自然の中で育ち、生まれ故郷の川をめざして戻ってきます。そして、淡水と海水の混ざり合う川の河口の波打ち際で何度も何度も淡水をあび、鮭の体が真っ赤に変わり、決死の覚悟で、生まれた場所、川の上流をめざします。次の新たな命を育むために」とナレーションとともに産卵のシーンが映し出される。大きく口を開け卵を産みおとすメスの横で、寄り添うオスが大きな口を開け、川の水が白くにごるまで精子をまく。受精した卵はわれわれが口にするイクラではなく、命が宿ったピンク色の卵。しかしながら、産卵を終えた魚たちは鱗がはげ、生きる力を卵に託したかのように息は絶え絶えとなり、死んでゆく。

 その映像に、私は生き物の“はかなさ”と生き物がもつ“尊厳”を感じた。それは、自然界の競争に勝ち抜き、淘汰された仲間の命を背負って生き抜き、種の保存という使命を果たし終えた自然な姿の死であった。

 それに引き換え、われわれ人間はどうであろうか。数十年前までは、死亡原因の上位に、老衰という病名があった。老衰とは年老いて食事が取れなくなり、からだ全体が衰えて死ぬことである。しかし、年老いて食事が取れなくなっても病院へ収容され、医療が施される。寝たきりで、意思疎通ができなくなっても、ワクチン接種やチューブ栄養で生かされる。

 家庭で最後を過ごせないわれわれは、経済効率のために狭い空間に収容され管理される。そこではワクチン接種や強制栄養、さらに徹底した院内感染対策が実施され、集団で生かされる。

 医療は、年齢にかかわらず平等に施されることが理想である。一方、少子高齢化が進む日本において高齢者の介護や医療は、大きな経済市場でもある。

 因果応報という言葉があるが、“養殖された動物の命で生きてきた”われわれ人間の最後のツケがこんなかたちで待っているとは皮肉なものである。