尊皇攘夷派と孝明天皇

 実は、尊皇攘夷派にとって、政権を奪取する上でもっとも邪魔になったのが孝明天皇の存在であったことに留意しておく必要がある。
 孝明天皇という人は、もともと“毛唐(けとう)嫌い”で知られている。
 同時に、頑迷なまでの大政委任論者であり、何よりも「復古」が嫌いであった。「復古」を喚く勢力が大嫌いであったといった方が正確かも知れない。

 このような事実から、孝明天皇の暗殺説が生まれ、これをまるで推理ドラマの謎解きのように詳述する書籍が数多く世に出るに至った。

 孝明天皇暗殺説の真偽については、ここでは著しく本旨から外れるので一切触れないが、少なくとも「禁断の~」とか「~秘史」などと銘打ってまるで大スキャンダルが発生したかのような印象を売りにする“歴史書”には、細心の注意を払うべきであることを申し添えておきたい。

 それよりも、幕末動乱の歴史を正しく知る上で決定的に重要なことは、「鳥羽伏見の戦い」直前、即ち、「大政奉還」から「王政復古の大号令」という軍事クーデターに至る過程の京都政局と尊皇攘夷派の天皇利用という事実である。

 これは、これまでの明治維新史解釈が如何に誤っているかという一つの事例として繰り返し述べるものだが、永年に亘って公教育で教えてきた歴史は歪曲されたこと甚だしいところがあった。
 最後の将軍徳川慶喜に「大政奉還」という手を打たれ、政治的にも軍事的にも、岩倉、大久保、西郷たちは押しに押されて、失地挽回(ばんかい)に向けて悲壮な状況にあったというのが史実である。

「大政奉還」という慶喜の打ち手についても、確かに幕府が倒幕気運に押されていたことは事実であるが、それ故に慶喜が先手として打った政治決断であって、土佐藩が独自に発想して建白したというような史実は存在しない。

 ところが、現在に至るまでの官軍教育では、薩摩長州が「鳥羽伏見の戦い」に勝利したことから遡って幕末動乱の歴史を叙述するという、いってみれば予定調和的な語り口で歴史を教え込んできたのである。