奇跡の1ヵ月──[1998年3月]

「納期がものすごく厳しいのはわかっている。でも、これは千載一遇のチャンスなんだ。頼むよ。なんとかしてほしい」

 翌日、大田区馬込にあるファミリーレストランで、僕は福田とタケに久木田くんの話をした。天才技術者のタケも、このスケジュールにはさすがに絶句していた。それでも僕は決死の形相でお願いをした。最後には福田とタケも聞き入れてくれた。僕はその場で久木田くんに電話してOKを出した。しかし、僕が帰った後、タケは福田にこう言ったという。

「福田さん、できっこないですよ。絶対に無理ですよ――」

 第二のイケテル・スーパーダイヤルは、日本最大級となる電話情報サービスだった。専門業者に発注しても最短で半年、大手ソフトウェア開発会社であれば優に1年はかかるであろう巨大サービスだ。それをあろうことか、社長がわずか1ヵ月で完成させると約束してしまったのだ。それまで蓄積してきたノウハウがどれだけ優れていたとしても、どう考えても綱渡りの、神業が必要な日程だった。

 翌日からオフィスは戦場に変わった。ソフトウェア開発、サーバー準備、回線準備に、ほぼ社員全員が同時並行で、それぞれの専門業務にとりかかった。番組開始時点で240回線、つまり240人が同時に会話できるサービスを実現するために、音声応答システムは全部で10台、それ以外にデータベースや運用システムを格納したサーバー群をネットワークでつなぐ。回線手配、サーバーの仕入れ、セットアップ、ネット接続と、サービス開始直前までギリギリの作業が続いた。

 ひときわ困難を極めたのはソフトウェア開発だ。イケテル・スーパーダイヤルは、伝言掲示板機能以外にゲームなどのエンターテインメント要素も含み、しかも管理機能まで完備した巨大システムだ。これをわずか1ヵ月のあいだに設計からテストまで完了させようというのだ。胃が締めつけられるような納期だった。

 電話回線も240本集まると太くて堅い束になり、さながらトグロをまいた黒い大蛇のようだった。回線やサーバーを担当していた宮寺くんが、サーバーの熱であたためられたトグロに囲まれて寝ていたのを思い出す。会社の存亡を賭けたこの仕事のために、彼らは帰宅する間も惜しんでセットアップしてくれた。

 ソフトウェア開発を担当したタケや太田くんは、目を真っ赤にしながらがんばってくれた。番組開始直前までバグだらけで、予定通りのスタートが危ぶまれた。テストをしては修正する。その繰り返しが延々と続いた。光通信からも援軍が来た。新番組を担当する秋吉氏だ。僕自身もプロジェクトマネジャーとして開発に参加し、全員ふらふらになりながらも、最後まで諦めずに取り組んだ。

 納期が1ヵ月というのは死ぬほど厳しい条件だったが、逆に、1ヵ月だからこそ耐えられたのかもしれない。この状態が半年、いや3ヵ月も続けばキツかった。ベンチャーの成長期には、どうしても乗り越えなければならない壁が立ちはだかるが、この仕事は間違いなくそれだった。

 そして、1998年3月27日の夜、ついに「イケテル・スーパーダイヤル パート2 ♯8882」はスタートした。

 その瞬間は今でも忘れられない。次から次へと、見知らぬ利用者がサーバーに電話をかけてくる。ちゃんと動作しているだろうか。不安が募り、自分の携帯からも何度も電話をかけてみた。大丈夫、きちんと番組が動作している。だが、ほんの数分前までバグを改修していたのだ。オペラシティに集まっていた関係者は、まさに息を飲むような緊張感でサーバー群を見守っていた。

「大丈夫、問題なく番組が稼働しています!」

 光通信から来ていた秋吉氏が、番組全体を確認したあとに大きな声をあげた。

「おおおっーーー!」

 社員一同がどよめいた。正常に稼働している。この事実に最も驚いたのは、何を隠そう、開発にあたっていた僕たち自身だった。この時ばかりは信じられなかった。みんなも同じ思いだったろう。正常に稼働しているのに、しばらくは誰もその場を立ち去ろうとしなかった。

 僕は、その様子を見ながら、6年前に納品した第1号機を思い出していた。当時は12回線対応のシステムだった。それが、今や240回線の大規模システムだ。あの時と同じように、僕の無茶なお願いにもかかわらず、みんなはギリギリのところで仕上げてくれた。おかげで久木田くんとの約束を守ることができた。タケも太田くんも宮寺くんも、岩郷さん時代から苦楽をともにしてきた仲間だ。彼らのおかけで、この会社は復活の糸口をつかむことができた。いくら感謝してもし切れない思いだった。

 それからイケテル・パート2の快進撃がはじまった。ほぼトラブルもバグもなく番組がスタートし、すごい勢いで利用者が増え出した。資料が目一杯入った特大の黒カバンを片手に抱え、全国の携帯キャリア各社を飛び回った久木田くんの営業力の賜物だった。

 この日はフレックスファームにとって天王山となる1日だった。ついに僕たちは安定的な収入源を得たのだ。イケテル・スーパーダイヤルはこの後も拡張が続き、のちに1000人もの人が同時に着信できる日本最大の電話情報サービスに成長する。そして月間で数千万円の固定収入がフレックスファームにもたらされ、その後の成長の原動力となっていった。(つづく)

(第19回は1月30日公開予定です)

僕のなかの猪武者はすでに走りだしていた【『再起動 リブート』試読版第18回】

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数