「死に際」に立ち会う医師の役割

【久賀谷】とはいえ、いまの日本の医療の状況では、医師が患者さんの「死」を提示することは避けられませんよね。医師側のあり方については、どう考えていますか?

【白澤】日本の今の医学の問題点は、患者の死について「その人の人生」を語らないという点にあります。医者のほとんどが「肉体」しか語らないんです。その人の人生を語るのは、牧師さんとお坊さん。でも多くの場合、亡くなってから語っています。亡くなる前に語ることはあまりありません。
海外では違います。患者さんがなくなる前に牧師さんがベッドサイドに行き、その人の人生を語ることができるんです。そういうシステムが整っています。
日本の場合は、お坊さんや牧師さんは、厚生労働省のテリトリーに入っていくことはできません。医師免許がないですからね。

【久賀谷】たしかにそうですね。

【白澤】それならば、医者の中に牧師をつくったらいいと思うんです。その人の人生を考え、語る役割の人をつくる必要があります。
終末期の医療にとって最も大事なのは、その人らしい人生を最期まで全うさせてあげるサービスを提供できるかどうかです。少なくとも、胃ろうをやったり点滴をやったりするのは、その人らしい人生とは言えない。その人の「入院後の人生」ではなく、「活き活きと生きてきたそれまでの人生」にふさわしいかたちで、周りの人間が見送ってあげるべきだと思うんです。
人生が1冊の本なのだとすれば、死はそのラストページですよね。その人の人生にふさわしいラストページにしてあげなければいけません。

【久賀谷】医学部でそのような教育が行われていないことも問題ですよね?

【白澤】そうなんです。肉体的なことばかりに終始してします。「呼吸が止まったときにレスピレーターをつけますか」とか、「挿管しますか」とか、「血圧か下がったときにドーパミンを入れますか」といった話は、単なる「手続き」であって、その人の人生に寄り添っていない。私はここに大いに疑問を持っています。

【久賀谷】おっしゃる通りだと思います。

【白澤】終末期医療をやっている300床ほどの病院に、週末だけお手伝いに行っていたことがあります。金曜の夜に病院に行き、月曜の朝まで48時間いて、亡くなる人を看取るという仕事です。
医局には「重症リスト」という、いつ亡くなってもおかしくない方のリストがあります。常時だいたい20人ほど載っていて、1回の勤務でそのうちの約3人が亡くなっていました。その死亡診断書を書くのが僕の役割ですね。

【久賀谷】そんなこともされていたとは。驚きました。

【白澤】それ以外の時間は自由に過ごしていいと院長に言われていたので、執筆活動をしたり、許可をもらって趣味のフルートを吹いたりしながら、医局で過ごしていました。
病棟と医局は離れていたので大丈夫だと思っていたんですが、結果的にはフルートの音が漏れていたんですよ。お手伝いに通い始めてから1年くらいたったある日、執筆活動が忙しくてフルートを吹く時間がなかったときに、1人の患者さんがなくなって、病棟に呼ばれました。すると、その方を看取った婦長に、「先生、今日フルート吹いていないんですね」と言われたんです。
「しまった! 1年間ずっと、音が漏れていたのか……」と思いました。でもその婦長は、「週末の先生のフルート、私も患者さんたちも楽しみにしているんですよ」と言ってくれたんです。私はクラシックが好きで、フルートでもクラシックばかり吹いていたんですけど、それ以来、高齢者の患者さんたちにも馴染みがある日本の童謡なども吹くようになりました。

【久賀谷】素敵なお話ですね。

【白澤】そこで気づいたんですよ。それまでは、その病院が「サービス」として出せるものは「点滴」くらいしかなかったんですよね。でも僕は、図らずも「音楽」という、点滴以外のものを提供していた。そしてよく考えてみれば、「体をさすってあげる」とか「声掛けをしてあげる」とか、安らかにこの世から送り出すためのサービスは、ほかにもたくさんあるんですよね。