『最高の休息法』著者で精神科医の久賀谷亮氏と、抗加齢医学の専門家・白澤卓二氏による対談の最終回。どんな人にも死は訪れる。私たちはその死をどう考え、どう向き合い、どう受け入れていけばいいのだろうか?(構成/前田浩弥 撮影/宇佐見利明)
「死を受け入れる」とは、どういうことか
順天堂大学大学院医学研究科・加齢制御医学講座教授などを経て、白澤抗加齢医学研究所所長、お茶の水健康長寿クリニック院長、米国ミシガン大学医学部神経学客員教授、日本ファンクショナルダイエット協会理事長、日本アンチエイジングフード協会理事長。
専門は寿命制御遺伝子の分子遺伝学、アルツハイマー病の分子生物学など。
著書に『100歳までボケない101の方法―脳とこころのアンチエイジング』(文春新書)、『腸を元気にしたいなら発酵食を食べなさい』(河出書房新社)など多数。
【久賀谷亮(以下、久賀谷)】先日、ロサンゼルスにある在米日本人のシニアハウスを訪問してきたんです。「死を受け入れている」とか「まだ死を受け入れられない」とか、そのようなことを話す方が多くて、みなさん、「死」というものとどう向き合うのかそれぞれ考えていらっしゃるんだなと感じました。
【白澤卓二(以下、白澤)】「死に際をどう生きるか」のヒントになると私が思っているのが、ドイツの事例です。
ドイツのナーシングホームでは、食事を摂れなくなった人には栄養の補助をしないんですよ。日本の場合、食を受けつけなくなってきた人に対しては、流動食にしたり、胃ろうをつくったりして、なんとか生かそうとしますよね。でも、ドイツはそれをしないそうです。
【久賀谷】そうなんですね。知りませんでした。
【白澤】はい。だからドイツには、寝たきり状態の高齢者はかなり少ない。食事が摂れなくなった患者に栄養を補助しないと、数ヵ月で死にます。でもドイツの人たちは「それが人間だ」と考えています。「自分の口でものを噛んで食べること」は、会話したり、笑ったり、道具を使ったりするのと同じく「人間的な行為」であって、その機能がなくなったときには、人間としての人生は終わりに差し掛かっているととらえる。
もちろん、食欲はあるのに、口の中や胃が炎症を起こしていたりして食べられないといった場合には、しっかり治療します。しかし老衰から、食欲そのものがなくなったとき、栄養を補助してまで命を引き延ばすことに、ドイツは否定的なんです。そこに「人間としての生産的な人生」はないという価値観ですね。
【久賀谷】それは本人も、家族も、ものを食べなくなったときには同じ考え方なのでしょうか?
【白澤】そうです。周りのみんなもそうですからね。
【久賀谷】そのような文化的背景がない日本人は、いつごろから「死」というものを受け入れていくのでしょうか?
【白澤】それはそれぞれの個人によりますが、共通して大きな影響を受けるのは、主治医の言葉でしょうね。
主治医に「あなたにはガンがあります」と言われたり、あと命はどのくらいかと尋ねたときに「あと半年です」と言われたりすれば、死を意識せざるを得ないでしょう。主治医の言葉は、患者に「余命」を明確に突きつけますからね。
また、たとえばナーシングホームに入ったりして、周りの状況が見えるようになると、これも非常に影響力の強い情報となります。同じ入所者の方が亡くなることもあるでしょうから、「自分もやがてこんなふうに死んでいくんだ」と思いはじめる。
どちらにしても、医療がやっていることは、「死」に関して患者に大きなインパクトを与えます。
【久賀谷】医療の責任は大きいですね。
【白澤】そうですね。
他方、長寿の人の中には、病院にほとんど行かないという人も多くいます。「医者嫌いほど長生きする」というのはよくある話です。結局、医療や医学の恩恵を受けて長生きする人というのはそうそういないんですよね。
そのような人にとっては、自分のお父さんとお母さん、あるいは兄弟が何歳まで生きて、最期はどのように死んでいったかということが、最も有用な情報源になるのだと思います。
僕は、こちらのほうが自然な「死との向き合い方」だと考えます。主治医からいきなり「死」を提示されるのではなく、自分の近い人の「死に様」から死を考えるようになる。