そもそも、かつて発送電分離が電力改革として論じられていたのは、電力市場の自由化のためだった。電力市場への新規参入を増やし、競争を激化させて、電力市場を効率化しようという議論だ。しかし、今回の原発事故から得るべき教訓は、原発の安全強化に加え、送電インフラの整備などエネルギー安全保障の強化であって、効率化ではない。
送電インフラの強化は、太陽光発電や風力発電を増やす上でも必要だ。だが、発送電分離の後に電力市場がさらに自由化されて競争が激化するなら、電力会社は、(設備の安全対策を含む)エネルギー安全保障のための長期的な投資やコスト負担に消極的にならざるを得なくなる。実際、米国における電力自由化は、電力危機を招く結果となったのだ。
人気取りに流れた白紙改革は禍根を残す
要するに、発送電分離体制は、電力危機に対して非常に弱いシステムなのだ。それをこのタイミングで導入しようというのは、今回の震災及び原発事故とその後の電力不足問題から、何の教訓も得ていないのではないかと首をかしげたくなる。
なぜ発送電分離という議論が持ち上がったのか。発送電分離をスローガンにしたかつての電力改革のイメージに引きずられて浮上しただけなのか。それとも、原子力賠償への税金の投入と引き換えに、東電を見せしめに解体してみせて、国民を納得させようという魂胆でもあるのか。いずれにせよ、原発事故で電力会社が意見を言えなくなったのをいいことに、机上の空論や歪んだ思惑が幅を利かせているのは、憂慮に堪えない。エネルギー安全保障は、国家の大計だ。人気取りに流れた白紙からの改革は、普天間基地の問題同様、大きな禍根を残すことになるだろう。
だが、現在のような状況下で、これまで述べてきたような主張を展開すれば、バッシングの矛先は、筆者にも向かうだろう。特に、筆者は資源エネルギー庁に勤務した経験をもつので、その可能性はなおさら高い。しかし、それを恐れて口をつぐんでいることは、言論の自由を無意味にすることであり、不当なバッシングを黙認することは社会正義に反する。そして国益を失うことにもなる。それらを筆者は恐れるのである。
最後に、エネルギー行政に多少なりともかかわった立場から、あえて私見を述べれば、行政と電力業界とは慣れ合うどころか、かなり激しく対立して議論を戦わせた経験が少なくない。行政の側からみて、電力会社は、技術的・法的・経済的な論理で武装して、公益的な見地から反論してくる手ごわい相手だった。「それで本当に国のためになるのですか」と面と向かって問い質されたこともあった。そのような相手には、筆者は正直に言って自尊心を傷つけられたこともあったが、同時に、敬意を払わざるを得なかったのである。
限られた個人的な経験に基づく主観に過ぎないのだが、電力会社には公共精神に富み、地域社会や国全体の公益を真剣に考えようとする人材が比較的多いというのが筆者の印象であり、それは今でも変わらない。