ガルトゥングは1930年にノルウェーで生まれた。1959年、29歳の若さで、有名なオスロ国際平和研究所(PRIO)を創設し所長に就任した。ノルウェーといえば創造的な調停外交で知られるが、そこにはガルトゥングやPRIOが苦労して整えた下地がある。
ガルトゥングが平和について研究したいと思い立った当時、世界には「戦争学」しかなく、「平和学」などというものは存在しなかった。若者は独力で道なき道を切り拓き、「平和学の父」と呼ばれるに至った。
連載4回目(最終回)はガルトゥングの人物に焦点を当てる。彼はどのような家庭に生まれ、どのように育ち、どのような思想や価値観のもとで行動しているのか?(構成・御立英史)
父親の影響
ガルトゥング家はヴァイキングの時代から続くノルウェー最古の貴族的な家系で、父は医者、陸軍少尉、オスロ副市長も歴任した人物である。その父が1940年、ナチス・ドイツがノルウェーを占領したとき、反ナチス地下運動を組織したために投獄された。ガルトゥングは9歳のとき目の前で父親が連行されるのを見た。後に無事に釈放された父は、戦闘発生時に敵味方の区別なく救護に当たった。
良心的兵役拒否者
ガルトゥングは20代半ばのとき、良心的兵役拒否者として12ヵ月間の単純労働に従事した。さらに6ヵ月の単純労働を言いわたされたとき、平和プロジェクトで働くことを願い出たが認められず、無意味な労働の延長を拒んだために労働刑務所に6ヵ月間収監された。
後にガルトゥングはその収監体験を踏まえた「囚人共同体」の研究で博士号を取得する。さらに10年後、大学で教えていたガルトゥングに法務大臣から電話があり、良心的兵役拒否者を研究助手に迎え入れないかと打診されるという嬉しい前進もあった。
私個人の立場もはっきりさせておこう。私は無抵抗主義者ではない。しかし暴力の行使は奨励しない。したがって、もしノルウェーが他国に侵略されたら、私は非暴力抵抗の立場から「彼らに侵略させ、そこから抵抗を始めよう」と言うだろう。ノルウェー軍(NATO軍でもある)の攻撃的軍事活動に対しては、私は良心的兵役拒否者である。(p.44。以下ページ数はすべて『日本人のための平和論』)
平和学は、約100ヵ国の大学や研究機関で教えられている
当時、戦争学や安全保障論だけがあり、平和学というものはなかった。ガルトゥングは平和の研究に身を投じる決心をする。その勇気を与えてくれたのは、幼いころから繰り返し父に言われてきた、「お前はお前だ。好きなことをやってよい。一生懸命やれば成功するだろう」という言葉だった。
ガルトゥングは東京・渋谷で開かれた講演会で、平和学を学びたいと語った女子高生に対し、さまざまな機関や組織が平和学を学んだ学生を必要としている、自信をもって頑張りなさい、と励ました。たった一人から始まった平和学は、現在では約100ヵ国、大小さまざまな800以上の大学や研究機関で教えられている。