皆さん、こんにちは。自分で言うのもなんやけど、「採用の神さま」小畑重和です。

 今回は30年前、自己分析もエントリーシート(ES)もない時代の就活話に付き合ってください。恥ずかしいんですが、ボクの就活話です。

「こうしたら内定が取れる」の参考にはなりません。けど、就活が悩ましいこと、ドラマであることは今と変わりません。ダメダメな話です。“就職氷河期”と言われる今にもつながる「何か」がありますので、それを汲み取っていただければ幸いです。

「何かええんちゃうか?」と、
松下政経塾を目指すことに…

 31年前、1980年の秋。ボクは大学3回生。

「就職どうしようかな?特にこれといってやりたいもんがわからんなぁ…」と思っていた時、高校時代の親友(現役入学なので当時4回生)の部屋で見つけた『就職ジャーナル』を読んでいると、「松下政経塾1期生が入塾して…」という内容の記事がありました。

 読み進めていくと、「松下電器の松下幸之助氏が、21世紀の日本を憂い、私財を投げ打って、政治・経営のリーダーを養成する学校を設立…」と、創立直後の海のものとも山のものともわからない時の松下政経塾について書かれていたわけです。在籍は5年間、多彩な講師陣(政治学者から茶道家、演出家など)、研修資金という名前の給与が発覚。「何かええんちゃうか」と思いました。

 当時の就職活動の流れは、日経連(日本経営者団体連盟)の紳士協定によって、大学4年生の10月1日選考開始、11月1日内定解禁でした。

 3回生の10月より、ボクは2つのゼミに入りました。国際政治学と国際法。その2つのゼミに、それぞれ松下政経塾2期生の内定者(入塾予定者?)がおられました。「これは、運命かも!」

 1981年3月、友人たちと「もうすぐ4回生やな、就職どうする?」という会話をしていた時、勇気を出して言ってみました。「オレか?オレ、うーん、政経塾に行きたいと思ってんねん」すると、「えー、あんなん、どうなるか全然わからんやん。リスキーやな。けど、オマエには向いてるかもしれんな」

 えー、どうなるかわからんのや。リスキーなんや。全然知らんかった。けど、向いてるかもって…やっぱりそうなんかなぁ…なんかそれはうれしいな。(今思うと、何を持って「向いてる」って言ってたのかな?笑)

<松下政経塾3期生募集>
81年5月、書類と簡単な論文提出
6月、書類選考後1次面接@大阪 

→無事通過。