「冷静さを保つこと」が思考を広げる
「フリー・ユア・マインド」に習熟していくにつれ、カルマとダルマの区別もうまくなっていく。たとえば、誰かに怒鳴られるのが嫌だと感じているなら、まずはその相手を避けるための行動をとろうとするかもしれない。しかし次第に、問題をより大きな枠組みでとらえ、ネガティブな感情そのものを客観的にとらえられるようになるだろう。
誰かに怒鳴られたときに怒りがこみ上げるのはなぜだろう?当然ながら、怒鳴られるのが好きな人間などいない。だがその一方で、その嫌な感情を生み出しているのは怒鳴っている人ではなく、あなた自身でもある。
ストア派の哲学者、ローマのマルクス・アウレリウスは次のように語った。
「自分の外側にある物事に悩まされているとき、苦しみはそれ自体ではなく、あなた自身の考えから生まれている。故に、あなたはその苦しみをいつでも消すことができる」
ダライ・ラマもこの考えに同意している。十分な訓練を積むことで、あなたは痛みを伴うネガティブ感情を招くことなく、ネガティブな思考とつきあえるようになる。
次のように自問してみよう。
「誰かに怒鳴られると、怒りがわいてくるのはなぜか?」
あなたは「不快だから」と考えるかもしれない。だが、それは怒鳴られるのが好きでない理由にはなるかもしれないが、怒る理由にはならない。路上にごみが落ちているのは不快だが、あなたはそれを見るたびに怒ったりはしないはずだ。
「人からそんなふうに扱われるのが好きではない」と思うかもしれない。だが、それも必ずしも怒る理由にはならない。
怒鳴られて怒りを感じる本当の理由は、「叱られている子どものような気分になる」からかもしれない。だがあなたは、怒鳴られたときに叱られている子どものような気分になるかどうかをコントールできるはずだ。
次に上司から怒鳴られたときは、心のなかでこうつぶやいてみればいい。
「子どもみたいなのは上司のほうだ。私は大人として行動している」
そして、あらためて考えてみよう。怒鳴られて子どものように扱われているような気分になったとしても、だからといって怒りを感じる必然性はあるのだろうか?
あらゆる理由を考えた後で、あなたは結論を下す。怒鳴られて怒りを感じることを正当化する理由などどこにもない。最善の反応は、冷静さを保つことだ。怒りに気持ちを乗っとられてはいけない。ネガティブ思考をネガティブ感情に変えてはいけないのだ。
このように、精神的苦痛とは私たちが自ら生み出しているものだともいえる。ネガティブ思考はすべて「過去であれ未来であれ、欲しいものが手に入らない」という同じ原因から生じている。
「フリー・ユア・マインド」では、あなたが何かを求めていることの正当性を尋ねたりはせず、その欲しいものを本当に得られるかどうかだけを評価する。得ることができないのなら、得られるチャンスの多い他のものを探そう。この点で、ネガティブ感情を持つことは戦略として間違いだ。その時間とエネルギーは、他の道を見つけることに費やすべきだ。