Photo by Masato Kato
築40年を超す雑居ビルの2階に上がると、古びたフロアのいちばん奥まったオフィスから、英語で議論する声が響いてきた。
昔ながらの診療所や美容室が軒を連ねるビルのひなびた雰囲気とは一線を画し、そこだけ凛とした空気が漂っている。
その会社こそ、ウェブ検索の分野でにわかに評価を高めているアッションだ。
「世界標準を創造するというのがうちの理念。ここでは会話もメールも英語が共通言語」と社長の木下洋平は話し始めた。
起業のきっかけは、よくある話だ。
就職活動に失敗、自分を見つめ直すために世界を放浪、刺激を受けて起業を決意した──。
しかし、その夢を現実のものとし、かつ事業を軌道に乗せた人がどれだけいるだろうか。なぜ、ごく普通の大学生だった彼が起業を成し遂げ、生き馬の目を抜くIT業界で生き残っているのか。その背景には、確たる二つの決意があった。
1度目の就活後、木下は大学を休学し、インド・コルカタからクルマで20時間もかかる貧村でNGO活動に従事した。風呂もなく、水たまりのようなところで体を洗う極貧生活を送った。前日に言葉を交わした人が、いきなり死んでいたこともあった。
そのとき、こうしたアジアの国々で富を生み出すビジネスを作りたいと強烈に思ったという。
ライブドア事件で目前だった上場は頓挫
理念の大切さを痛感
2度目の就活で、総合商社の伊藤忠商事から内定を得たが、30歳までに起業するため、ビジネスのイロハを学んだら辞めようと入社前から決めていた。
稟議書の書き方からプロジェクトの進め方まで、起業に必要なスキル10個をノートにリストアップした。そのすべてを学び終えた頃、大手商社は投資会社へと変貌を遂げ、業績は絶好調。安定と高収入が約束されていたが、木下に未練はなかった。
25歳で退職。経営の経験を積むため、小さなIT企業に転職し、営業担当役員として活躍した。会社は時流に乗って急成長を遂げ、転職時7人だった社員は最盛期、10倍の70人にまでふくれ上がっていた。
しかし、悪夢は突然やって来た。ライブドア事件だ。
目標だった株式上場までカウントダウンに入っていた2006年1月、ライブドア本社に東京地検特捜部が強制捜査に入るニュースを見た木下は「築き上げてきたものが一瞬で崩れ去った」と絶望に打ちひしがれた。