ベラスケスとフェリペ4世
17世紀のスペインではイタリアのように芸術家という概念が浸透しておらず、画家はレンガ職人や大工と同じように職人と見なされていました。しかし、義父パチェーコは画業を高尚な職業と考え、画家の地位向上を願っていたため、その影響をベラスケスも大きく受けます。そして彼は、画家としての最高位、すなわち宮廷画家になることを願うようになるのでした。
そのベラスケスにチャンスが訪れたのは、1623年のこと。16歳で即位したばかりの若き新王フェリペ4世を操り、内政も外交も全て一手に取り仕切る、スペインの真の権力者であったのがオリバレス公伯爵でした。このオリバレス公伯爵と、義父パチェーコと交流があったこともあり、公伯爵の口利きでベラスケスはマドリッドの宮廷に迎えられ、正式にフェリペ4世の宮廷画家に任命されたのです。
フェリペ4世の寵愛を受けるようになったベラスケスは、宮廷画家兼職員という立場でその生涯をフェリペ4世に捧げることになります。二人は王と宮廷画家としての垣根を越えて深い信頼で結ばれ、ベラスケスは生涯で34点ものフェリペ4世の肖像を描きました。
ベラスケスに影響を与えた「バロック絵画の王」ルーベンス
そして、ベラスケスに運命の出会いが訪れたのは1628年のこと。「バロック絵画の王」であるルーベンスが、外交使節としてマドリッドを訪問したのです。偉大な美術コレクターであったフェリペ4世は、すぐにルーベンスに信頼を置くようになり、宮廷のあったアルカサール(城)内にアトリエを持つことを許します。
29歳のベラスケスにとって、22歳年上の同じく宮廷画家でもあるルーベンスとの出会いは、芸術的にも多大な影響を受けただけでなく、人間としても良きロールモデル(お手本)となったのです。ルーベンスの薦めで二人は一緒にスペイン王室が誇るティツィアーノのコレクションを模写し、豊かな色彩を誇るティツィアーノの影響を受け、ベラスケスの色調も明るさを増していきました。
そして、ルーベンスの影響を受けたベラスケスは、かつてルーベンスが8年間過ごしたイタリアへ向かうことを決意。憧れのイタリアで、若き日のルーベンスのように古典芸術の模写に励み、芸術の都ローマに1年ほど滞在します。自由奔放な古代の神々であふれたローマは、キリスト教と厳しいエチケットに支配された暗いマドリッドの宮廷とは対極にあり、ベラスケスはローマで精神的な自由を満喫し、創造力の翼を広げていったのでした。