死なないように「好きなことだけ」で生きていく。

竹熊 今は映画ライターが中心ですか?

とみさわ ホントに雑多な仕事をしています。セガではお酒の原稿を書いたりしています。馬鹿な吉田類みたいなキャラでやってます(笑)。食事とか酒には、ほとんどこだわりがないんです。けど、一人ではどの位置で飲むとか、お店そのものを楽しむこだわりで書いていますね。あとは店の仕入れも兼ねて日本中のブックオフをまわって、その旅を原稿にまとめたりとか(笑)。

好きなことをしながら、死なないように生きていく方法――とみさわ昭仁の場合。【後編】竹熊健太郎(たけくま・けんたろう)
1960年、東京生まれ。編集家・フリーライター。多摩美術大学非常勤講師。高校時代に作ったミニコミ(同人誌)がきっかけで、1980年からフリーランスに。1989年に小学館ビッグコミックスピリッツで相原コージと連載した『サルまん・サルでも描けるまんが教室』が代表作になる。以後、マンガ原作・ライター業を経て、2008年に京都精華大学マンガ学部の専任教授となり、これが生涯唯一の「就職」になるが、2015年に退職。同年、電脳マヴォ合同会社を立ち上げ、代表社員になる。4月に『フリーランス、40歳の壁――自由業者は、どうして40歳から仕事が減るのか?』を上梓。

竹熊 というと、生活は成り立っている?

とみさわ そろそろ成り立ってきそう、という感じです。最初は「マニタ書房」にもほとんどお客さんがいなかったですし。エレベーターない四階ですから(笑)。

竹熊 一日、何人くらいのお客さんがいらっしゃるんですか?

とみさわ 少ないときは0人ということもあります。多くて4人とかですね。でも今日は日本語ペラペラのフランス人が来て、ゲーム研究者らしいんですが1万4千円分買って帰ってました(笑)。僕がつくった『ガンプル』も知っていて、僕が作ったんだというと非常に喜んでいました。

竹熊 僕も最近オタクのアメリカ人と会うことが多いんですが、彼は『漫画ブリッコ』を持っていた(笑)。

とみさわ 多いですよね。勝手に僕の人生を要約すると、「30歳の壁」を助けてくれたのがゲームフリークで、「40歳の壁」を助けてくれたのが、またゲームフリークです。「50歳の壁」を助けてくれたのが、さくまあきらさんと妻だったんです。「フリーランスは1人ではやっていけない」ということを実感しました。

竹熊 僕の中でとみさわさんと被る部分がすごく大きいんです。私は30歳そこらで『サルまん』を経験して、40歳の壁として離婚することにもなった。46歳で脳梗塞になりました。そして、大学に拾われた。でも、結局その大学も辞めちゃった。バカだなあと我ながら感じますよ。でも同時にそうせざるを得なかったという感覚もある。大学での専任教授ってやっぱり職場の人間なんですよ。いろんな仕事がいっぱいあって、それをやらなきゃいけないんです。僕はそれについていけなかった。で、去年発覚したんですが診断を受けまして自分がADHD(軽度発達障害)ということに気付いたんです。専門家に診てもらったんですけどね。要するに、大学に勤めるということが無理だった。

とみさわ 僕も一緒なんでしょうね。サラリーマンをやっていてもイヤになっちゃうし。

竹熊 普通の人は我慢できると思うんですよ。妻子を持ったりして責任感があって。でも僕には無理だった。この歳(54歳)でフリーに戻るなんて自殺行為ですよ。

とみさわ 思い出したんですが、確かに年を重ねていくと竹熊さんのおっしゃる通り、仕事の依頼主が年下になってくるかた使いづらいのはあるでしょうね。僕が『ファミ通』で仕事をしていたとき、編集長の浜村弘一さんなんか同い年でしたからね。編集長の同い年のライターって確かに使いづらかったでしょう(笑)。

竹熊 僕が駆出しのライターだった頃、50代のカメラマンとかいて、いい人なんだけどどこか怖かったもの(笑)。

とみさわ 自分たちがそっちの側になると、全然そんな気を遣う必要なんかなかったなと思いますよね(笑)。

竹熊 今は出版業界全体も変わってきましたね。連載を何本か抱えていらっしゃいますが、ウェブの媒体も多いでしょう?

とみさわ 多いですね。なので古本屋の売上で家賃を払ってしまって、ライターの仕事で稼いでいくという感じです。でも自分の好きなように仕事をしているだけなので、何のストレスもないです。無いのはお金だけで、理想の生活という気もしています。あと僕は所有することを諦めたコレクター、エアコレクターなんです。買ってきては古本屋で売り、また買いに行くための旅行に出るという(笑)。

竹熊 ある意味で羨ましい。理想の生活を築いてしまったということですね。今日はありがとうございました!

好きなことをしながら、死なないように生きていく方法――とみさわ昭仁の場合。【後編】

(了)
※取材は2015年5月に行われました