そして今、アイスランドでは、特に消費者たちの意識が変わってきている。アイスランドの大自然を駆け回る、巨大なSUVは今やバブルに踊った道化の象徴だ。ファストファッションのH&Mも、安くて一過性と嫌悪されている。そして、長い間「クールじゃない」とレッテルを貼られてきた、アイスランドの地元産品の価値が急速に高まっている。
震災が起きた今こそ画一的教育を脱するとき
振り返って今、日本はこうした実践的な教育を、未来社会の担い手である子供たちに提供しているだろうか。
気仙沼で水産加工業を営み、3人のお子さんを持つ斉藤さんはこう言った。「進学校に行けば、高1から熱心に受験勉強をさせられる。今年は早稲田に何人、慶応に何人合格した、という話題ばかりだ。これでは地元を照らす人が出てこない」「外から気仙沼をみることは、大事な経験だと思う。だけれども、必ず帰ってきて気仙沼を背負うんだ、という人が育たない」
それはある意味、衝撃的な話だった。震災が起きたために人々が去っていったことはもちろんだ。しかし、それは震災以前から、地域社会の悩みであったことを改めて痛感させられたのである。
子供たちによりよい生活を望む親たちは、よりよい教育を受けさせたいと考える。そして、子供たちはその期待を受け、いっそう外へ外へと目を向けて行く。高校のない町や村の子はより大きな市の高校へ。大きな市の高校にいる子は、都会の大学に入学すべく受験勉強が熱心な進学校へ。自分たちを取り囲む環境や文化を学ぶ機会もなく、画一的な教育を受けた子供たちが、一度その土地を出て行ってしまえば、地元について学び直すことは難しい。
地元の長所・短所を知り、その課題を克服する力を培う――それは、被災地に限らず、日本の地方都市で必要とされる教育の肝ではないだろうか。被災によって各地が内包してきた課題がむき出しになった今、未来社会のモデルをつくる切実さは確実に増してきている。