暇を消費する者とマネタイズする者への二極化
ゲームというのは、かつては余暇の時間に行われるものだった。24時間から、仕事・睡眠・食事と生活に必要な時間を引いて余った時間に、家族がお茶の間でテレビを囲んでいたように、ゲームもそのような余暇の時間の楽しみとして行われたものだった。
しかし、モバイルインターネットの登場以降、ゲームは日本ではDeNAのモバゲーのように携帯電話からアクセスできるものとなり、ちょっとスキマ時間にやっては、お金を落とすというような状況が生まれた。
DeNAもグリーもスキマ時間をうまくマネタイズした上で、さらに多くの暇な時間を搾取することで事業として成功したのである。
そして、スマートフォン時代の現在も多くの人たちがスキマ時間はおろか、余暇のすべてをモバイルゲームに費やしている。
しかし、それは手に入れた暇という時間を、ただ消費の対象として過ごす者と、付加価値を提供することでマネタイズの対象にできる者の2種類がこの世の中に存在するから起こる事象でしかない。
産業革命前夜の18世紀初頭、英国やフランスの貴族階級やブルジョワ階級の人々にとって余暇とは高貴な生まれの者に与えられた褒章であり、特権であると見なされていたという。
なぜならば、その時間は「個人の開花や、調和の取れた主体形成」に使われるべきものであり、「活動的個人の教養」として社会に還元するべきものと捉えられ、労働者階級の快楽的かつ時間消費だけの余暇活動に対して批判的であったからである。
これは特権階級ですらも(だからこそ)、快楽的な時間消費に向かいがちなのを戒めるために、そのような理屈をこねただけかもしれないが、余暇というものの本質を捉えている。
結局、私たちの未来に広がった果てしなき暇という時間を、個々人の視点で捉えるならば、単なる消費する対象として捉えるか、「個人の開花や、調和の取れた主体形成」や「活動的個人の教養」として社会に還元できるかで大きく異なってくる。
そして、企業の観点から捉えると、その果てしなき暇をいかに消費させることができるか、それがビジネスとしての成否を分けることになる。