自覚症状があるのか、勘治がおびえた様子で病室に入ると、医師は目線を合わせようとせず、座った勘治に対し、「軽い胃潰瘍ですな」と伝えます。勘治は医師に食い下がります。

勘治 「正、正直に本当のことをおっしゃってください、胃がんだとおっしゃってください」
医師 「いや今申し上げたように軽い胃潰瘍ですから」
勘治 「手術は…、手術も不可能なんですか」
医師 「もちろん手術の必要はありません。内科的に治ります」
勘治 「あの食、食事は」
医師 「そうですな、まあ常識的に考えて、あまり不消化なものでなければ、好きなものを上がって差し支えありません」

 結局、医師は真実を伝えません。これが勘治の思い過ごしではないことは直後のセリフで分かります。勘治が病室を立ち去った後、医師が「(注:勘治の余命は)せいぜい半年だな」とつぶやいているためです。

 こうした違いは、「患者主権」の有無の表れと理解できます。日本では1980年代頃から患者の権利に配慮する動きが強まり、患者に病状を知らせたり、手術について同意を取ったりする「インフォームドコンセント」が重視され始めました。

 しかし、『生きる』の頃は、告知が一般的ではない以上、『湯を沸かすほどの熱い愛』のように告知のシーンが登場すると、不自然になります。そこで、待合室の雑談から真実を想像させる設定にしたと思われます。

 もちろん共通点としては、がんで亡くなることです。しかし、『生きる』の頃も同じような状況だったのかというと、そんなことはありません。

岸恵子主演映画に見る
結核が「国民病」だった時代

【表】をご覧ください。終戦直後の1950年、死因のトップは結核でした。『生きる』の監督だった黒澤明の映画で言うと、1948年公開の『酔いどれ天使』が結核をテーマにしています。具体的には、『生きる』で病人役だった志村喬が真田という医師の役目を演じ、結核のやくざ、松永(三船敏郎)を手当てする場面があります。当時の日本人にとって結核は「死の病」であり、そして日常的な出来事だったのです。