名将が語る、人・組織・ルールetc.本質を捉える「考え方」とは、どういうものだろうか。 落合博満氏の新刊『決断=実行』の刊行を記念して、特別に本書の中身を一部公開する。(まとめ/編集部)

落合博満著『決断=実行』特別公開  ※写真はイメージです

一芸に秀でたければオタクを目指そう

 野球で大成したければ、あるいはプロ入りに近づくためには、投げる、打つ、走る──どんな分野でもいいから一芸を磨けといわれる。
 私も監督を務めている時、バカがつくほどの強肩、当たれば大きい長打力、陸上競技の選手並みの走力を備えた選手がいれば、その能力だけでドラフト指名してもいいと考えていた。
 もちろん、その飛び抜けた能力だけでプロ野球選手として大成できるかといえば、そんなに簡単なことではない。しかし、持って生まれたという部分が大きい身体能力は、誰もが備えているわけではないという点で一芸になる。
 同じように、たゆまぬ努力で身につけられた針の穴を通すような制球力、どんな打球にも対応できる守備力なども、磨けば磨くほど、誰にもない一芸になる。
 では、そうした一芸はどうすれば身につけられるのか。
 あえてこの言葉を使うが、「オタクになること」である。

 野球で大成したいのなら、野球オタクになることだと思う。
 特に、時代の流れや最近の若者の気質を考慮すれば、オタクという表現がしっくりくる。
 オタクという言葉が誕生したのは、1970年代なのだという。漫画やアニメなど大衆文化の愛好家が、互いを名前ではなく「お宅」と呼び合ったことが語源となっており、私が知った頃は、いい大人なのに漫画やアニメを見ている人、漫画やアニメばかりに夢中になっている人を揶揄する意味合いがあったと思う。
 だが、漫画やアニメが海外に進出し、日本の文化として定着するようになると、オタクのニュアンスも変化していく。外国人が、漫画やアニメに詳しい日本人を「漫画オタク」と、あえて日本語で呼ぶなど、オタクという言葉には、その分野に極めて詳しい人という、尊敬が込められるようになったと感じる。
「あなたは漫画オタクなんですね」
「いや、まだオタクと言えるほど詳しいわけではないんです」

 最近では、そんなやり取りが交わされるように、オタクはエキスパートの意味でもとらえられている。

 さて、そんなオタクの歴史に対して、野球はどうか。
 私が子どもの頃は、放課後は日が暮れるまで三角ベースを楽しんだ。
 ボールの投げ方やバットスイングは、この遊びの中で何度も繰り返して覚えたものだ。雪に閉ざされる冬場には、こたつに入るとみかんを手にし、それを天井に向かって放り投げる。ギリギリで天井にぶつからないように投げたり、みかんが傷つかないように柔らかく捕ったりした。
 この感覚が、トスやスナップスローのセンスとして生かされた。
 そうやって、多くの人が子どもの頃から野球の動きに通じる感覚を、日常生活や遊びの中で自然に身につけていた。しかも、今ほど物も情報もない時代だ。テレビやラジオでプロ野球中継が始まれば食い入るように見聞きし、雑誌に掲載される人気選手の写真を見てフォームを真似した。
 ちなみに、私が初めてプロ野球を観戦したのは、小学校高学年の頃だったと思う。
 確か、兄に付き添われて夜行列車で上京し、後楽園球場に足を運んだ。巨人とどこの対戦だったか、どんな試合展開だったのかは一切覚えていないのだが、晴天だったにもかかわらず、西の空が夕立前のように黒ずんでいたのをはっきり記憶している。あとになって、その空の下が京浜工業地帯だと知った。
 また、中学生の時に野球専門誌で打者の分解写真を見ていると、ベーブ・ルースと川上哲治さんだけが、フォロースルーの段階で踏み出した右足のつま先が跳ね上がっているのを発見した。
 これもあとになって、強く大きなスイングをするには、川上さんのように踏み出した足のつま先を上げなければ、スイングの力を逃がす場所がなくなるのだと理解した。
 こうして、私は誰に強制されることもなく、好きな野球に自分のペースで触れ、取り組んできた。そして、プロ入りした瞬間から、野球は自分の仕事だという意識になり、24時間365日を野球で回していく生活になった。
 それを苦痛だと感じたことはないし、どこかで野球を忘れる時間を作らなければいけないと考えることもなかった。
 自然とほかの選手の動きに目が行き、「あれはどういう体の使い方なのだろう」と思えば、その選手か、その体の使い方を理解している人に聞いた。当時のプロ野球界は指導者や先輩が親切に後輩に教えてくれるという時代ではなかったから、知らないことは拝み倒してでも聞いた。
 私の人生を振り返れば、子どもの頃の遊びは、ほかにやることがないから野球。高校や大学の野球部はやめたが、それでも東芝府中に就職したのは野球ができるから。その野球を認められてプロ入りし、現役を退いても監督、評論家として野球にかかわっている。その中である程度の実績を残すことができたのは、誰よりも野球を考えたから。それを今では、野球オタクと呼ぶのだろう。
 野球オタクといえば、記録、カードやグッズの収集などが思い浮かぶが、私の場合はプレーオタクとでも言えばいいのか。現代の指導者の中にも、寝ても覚めても野球という人はたくさんいるはずだ。それを仕事ともいうが、オタクと表現しても間違いではないだろう。

 最近の若い選手はどうか。少子化などに伴って、野球人口の減少が話題に上ることもあるが、私たちの時代と比較しても体格に恵まれている選手は増えているし、何より用具やスポーツ医学の進歩により、プレーする環境は格段によくなっている。
 そうした体格や環境を生かして、とことん野球に取り組んでいるか。練習を終えて寮の部屋に戻っても、プロ野球中継を観たり、野球のことを考えたりしているか。チームメイトと野球の話をしているか。
 子どもの頃から野球をやってきた人たちには言わずもがなだと思うが、野球が上手くなりたいのなら、体を動かす練習だけではなく、頭で野球を学ぶことも必要だ。
 プロ野球中継を観たり野球関連の本を読んだりすれば、何か上達のヒントになることはあるだろうし、チームメイトと野球の話をすれば思わぬ気づきがあるかもしれない。
 練習以外の時間は自室にこもり、スマートフォンをいじったり、ゲームをしたりしていても野球は上手くならない。百歩譲って、オンとオフはしっかり切り替えたいと、プライベートな時間は野球を忘れたいのなら、それでもいい。その分、ユニフォームを着ている時間には、誰よりも野球を学ぼうとしているだろうか。
 たとえば、ストレートはスピードもキレもそこそこ投げられるようになった。あとは落ちる変化球をひとつでも覚えれば先発を任せてもらえるという段階まで成長したが、どうしても落ちる変化球を身につけられない。
 あるいは、バッティングではレギュラークラスだといわれているものの、スローイングが安定せず、どうしても内野のレギュラーとしては使ってもらえない。
 そうした現状を打ち破るために、がむしゃらになって練習に取り組んでいるか。
 コーチにアドバイスされた練習方法で半年間やってみた。だが、なかなか成果は見られない。その先も根気強く同じ練習に取り組むか、何か違う練習方法にトライしてみるかは考えどころだが、「コーチの言う通りにやってみたけれどダメだった」とあきらめてしまったら終わりだ。
 技術事は、誰かにアドバイスを受ける、それを試してみる、成果が上がらないからやめる。この流れを時間の無駄だととらえてはいけない。
 そのやり方は自分には合わないということを知っただけでも収穫だし、ならば違ったアプローチをしてみようというヒントにもなる。
 そうして試行錯誤を繰り返し、これだという練習法に出合うことで、落ちる変化球を身につけられたり、安定したスローイングをできるようになったりするものだ。
 いくつ失敗を重ねたとしても、最終的に成功する方法がわかったほうがいいだろう。
 アドバイスを受けて試せば何でも身につくのなら、世の中は成功者ばかりになってしまう。成功する人間とは、素質に恵まれていたり、センスに溢れたりしているわけではない。何度失敗しても、「俺には野球しかないんだ」とあれこれ考え続け、時間をかけて成長してきた執念深い人間だ。それが個性的な投球フォーム、打撃フォームなのである。
 それを理解し、野球についてあれこれ考えることが楽しいという人間、すなわち野球オタクになることが、自分の目標に近づく大切な第一歩になるのではないかと思っている。

 かつて日本の社会は、クイズ番組で優勝するような、浅くても広い知識を持つ人がもてはやされた。しかし、時代の流れとともに、狭い範囲で何かひとつのことを探求している人の存在価値がクローズアップされ、彼らの活躍の場が増えている。企業でも、そうした人材が求められるようになってきたと聞く。
 私が定義するオタクとは「他の人が気づかないことに気づける人」だ。
 野球オタクこそ、自分を大成させる原動力になる。