名将が語る、人・組織・ルールetc.本質を捉える「考え方」とは、どういうものだろうか。 落合博満氏の新刊『決断=実行』の刊行を記念して、特別に本書の中身を一部公開する。(まとめ/編集部)

落合博満『決断=実行』特別公開<br />「監督として私が肝に銘じたこと」落合博満著『決断=実行』特別公開  ※写真はイメージです

監督として私が肝に銘じたこと

 2018年という年は、スポーツ界において選手と指導者の関係性を考えさせられる事案がいくつか明るみに出た。
 大学や高校のスポーツ部には昔から封建的な体質があり、先輩と後輩の上下関係にも陰湿なものがあったことは、40代以上のスポーツ経験者ならご存じだろう。

 時代は移り変わり、スポーツ部の雰囲気にも変化が見られるようになった。厳しさよりも楽しさを追求する中で、どういう指導が求められるのか、現場を預かる指導者は頭を悩ませているという。
 ひと口に指導者像と言っても、監督を務めてきた人たちの傾向には時代の流れが大きくかかわっている。プロ野球界も例外ではない。

 日本のプロ野球は1936(昭和11)年に産声を上げたが、初代監督は巨人の藤本定義さん、タイガース(現・阪神)の森茂雄さん、名古屋(現・中日)の池田豊さんが早稲田、阪急(現・オリックス)の三宅大輔さん、大東京の伊藤勝三さんが慶應義塾と、東京六大学のOBが大半だった。選手兼任で指揮をした人以外は、プロでの選手経験はもちろんない。
 戦後になると、水原茂さん、三原脩さん、鶴岡一人さんら、東京六大学OBであり、選手時代が戦時中で応召した経験を持つ人たちが指揮を執る。年齢ではやや下になる川上哲治さん、西本幸雄さんらも含め、この世代の人たちは長く監督を務めた。猛練習で技術と精神力を高め、頭脳的かつチーム一丸となって戦う日本の野球スタイルを確立したことで、「名将」と呼ばれる人が多い。
 70年代になると、そんな名将の下でプレーした廣岡達朗さん、野村克也さん、長嶋茂雄さん、森祇晶さん、上田利治さんらが監督になる。その後、45年7月生まれの高田繁さんが88年に日本ハムで監督に就任すると、戦後生まれが次々とチームを指揮するようになる。
 18年は、横浜DeNAのアレックス・ラミレス、千葉ロッテの井口資仁、巨人の高橋由伸と70年代生まれの監督が3人もおり、21世紀になってからプロ入りした人が監督になる日もそう遠くはないだろう。

 どんな時代に現役生活を送り、どういう監督の下でプレーしてきたのかは、その人の監督像に少なからず影響するのかもしれない。
 私自身は、現役時代は実戦の中で、「自分が監督だったら、この場面ではどうするだろう」と考えるタイプだった。だからと言って、将来は指導者になりたいと思ったことは一度もない。他の選手の野球人生に影響を与え、ある種の責任を持つことは性に合わないと考えていたからだ。

 しかし、04年から中日を率いることになった。就任の記者会見の際には、「どんな監督を目指すのか」と問われたが、具体的に誰かの名前を挙げることはしなかった。
 子どもの頃は長嶋さんに憧れたが、誰かのようになりたいと思っても、アスリートというのは一人ひとりが全く違った道を歩むものだ。だから、あえて言うなら、巨人を9連覇に導いた川上さんのように常勝チームを作りたいと考えた。
 そこで、私が知る限りの川上さん、あるいは西武で黄金時代を築いた森さんのチーム作り、戦術、選手起用などは参考にさせてもらったが、そうやって私が川上さんのようにやっていると思っていても、当の川上さんが私の采配を見たら「自分とは全く違う」と言うかもしれない。仕事のやり方とは、そういうものなのだろう。

 私が監督としてユニフォームを着る時に、肝に銘じたのは次のことだ。
「自分ができたことを伝えるのではなく、自分ができなかったことを勉強する」
 指導者にとって一番怖いのは、教える立場になったからといって、自分が何でも知っていると勘違いしてしまうことだ。これは、選手から何か質問をされた時、「それは分からない」と言っては指導者失格だろうと考え、「何でも知っていなければいけない」という誤った使命感による場合もある。
 だが、20年の現役生活を送り、さまざまな経験を積んだからといって、私が野球について何でも知っているかと言えば、バッティングに関してさえ、まだまだ知らないことはいくらでもある。そうなると、自分が経験してきたことしか伝えることはできない。
 私の場合は、内野守備や走塁についても腕のいいコーチからしっかり叩き込まれたという自負があるので、バッティングを含めて野手については自分の考え方を伝えることはできる。だから、プロで経験したことのない投手の分野に関しては、森繁和をはじめとする投手コーチに任せた。

 任せる以上は、変なタイミングで口を出さないように心がけた。
 任せるとは、そのコーチにも責任が生じる。ただ、最終的な責任は監督が取るということだ。
 毎日コーチからの報告を受けながら、時にはコーチとともにブルペンに足を運び、投手に関するあらゆる知識をレクチャーしてもらう。気づいたことがあれば、野手の立場からの見方や意見をコーチにぶつけ、議論することもたびたびあった。そうやって、自分が知らないこと、できなかったこと、経験しなかったことについても見る目を養い、次第に自分でも考え、伝えられるようにしていかなければいけない。

(書籍では詳しく書いているが)大塚晶文の後釜に据えるストッパーの件でも、あるコーチは川上憲伸を強く推してきた。最近では、評論家が開幕前に順位予想をする際、先発投手を揃えているチームよりも絶対的なストッパーがいるチームの順位を高くするケースが多い。それだけ、ストッパーという存在が勝敗を左右するようになったのは確かだ。川上のように精神面でもタフな投手を、ストッパーにしようという考えは理解できなくもない。
 だが、私は5~6人の先発投手を揃え、ローテーションを無理なく回していくことが、長いペナントレースを安定して戦う条件だと考えている。だから、その中心になり得る川上をあえてストッパーで起用することには反対した。それに、ストッパーをひとりに決める必要もないと感じていたので、前年までリリーフで実績を残した3~4人の投手で7回以降を抑えてくれればいいと思っていた。
そうした私の考えを理解してくれていた森繁和コーチとは、ストッパーは岩瀬仁紀に任せようという考えで一致していた。
 新人だった99年にセ・リーグ最多の65試合にリリーフ登板してから、5年間コンスタントに結果を残しており、先発できるスタミナも備えていたのだが、私が打者の目で見ると球種が少ないという印象があった。前年までストッパーを務めた経験はそう多くはなかったものの、マウンドで顔色を変えない気持ちの強さなど、岩瀬にはストッパーの資質が十分にあると見ていた。
 このように、森繁和には私が監督を務めた8年間、ずっと力を貸してもらった。
 なぜ彼を選んだのか。現役時代を常勝だった西武で過ごし、勝つためにはどういう駒を揃え、それをどう起用していくのかというノウハウを持っていると考えたからだ。
 何だかんだと言っても、野球は勝敗の8割を投手力が握っていると言われるスポーツなのだ。森繁和が経験してきたことは、常勝チームを築き上げていくためには一番に必要だと考えた。

 また、今だから明かせば、広島、西武、福岡ダイエーで監督を務め、編成部門の責任者としても手腕を振るった根本陸夫さんから、こんな話を聞かされていた。
「常勝軍団と言われた西武のチーム作りについては、すべて教えてある。34歳で現役を退いたが、実は指導者の資質を備えていると感じた私が早めにやめさせたんだ。おまえが監督になったら、絶対に使ってみろ。必ずおまえの役に立つし、おまえを助けるから」
 根本さんの言葉に、森繁和なら間違いないという確信もあった。
 そして、春季キャンプの初日から紅白戦を行い、6勤1休で徹底的に選手を鍛えた。このやり方が批判されたことはすでに書いたが、私にしてみれば、過去にチームを強化した監督のやり方であり、その効果はすでに実証されている。それを批判する人たちは、おそらく、そうしたキャンプが過去にもあったことを知らないのだろう。それくらいにしか受け止めていなかった。

 どんなスポーツでも、時代とともに変化していく部分はある。最近、驚かされたのは、18年の平昌オリンピックで金メダル、銀メダルを1個ずつ手にしたスピードスケートの小平奈緒選手の練習法だった。
 簡単に書けば、14年のソチ・オリンピックまでの滑走フォームを科学的に見直し、理想的な姿勢や重心のかけ方を弾き出した。そして、徹底した反復練習で理想的な滑走フォームを身につけたのである。スポーツ科学がここまで進歩しているのなら、投手も自分に合った投球フォームを分析し、それを身につけられれば、安定した投球を続けることができるかもしれない。
 だが、バッティングやフィールディングに関しては、そうやって技術を身につけるのは難しいだろう。
 なぜなら、ともに相手投手が投げ込んだボールを打つ、飛んできた打球を捌くという受け身の動作だからだ。同じボールを打つ動作でも、ゴルフのように静止したボールを打つのならば理想的なフォームは弾き出せる。いや、バッティングの場合も理想的なフォームはあるのだが、それを身につけたからと言って、「打たせるものか」と投げ込んでくる投手のボールを確実にとらえることはできない。
 つまり、基本動作を体に染み込ませるのは大切なのだが、実戦になれば「いかにいいフォームで打つか」ではなく、「いかにヒットを打つか」という応用動作で対処しなければならない。だから絶対的な正解は存在せず、一人ひとりの選手に合ったフォームを作り上げていかなければならない。そのためには、指導者も自分の経験だけに頼るのではなく、勉強を続けていくことが肝要だ。

 さて、日本の野球界には「名選手、名監督にあらず」という言葉がある。ところが、先に書いた名将の系譜を見ていくと、70年代以降に目立つ実績を挙げた監督は、現役時代にもそれなりの成績を残していることが分かる。18年時点の12球団の監督を見ても、選手時代の活躍が容易に思い出せるだろう。
確かに、選手と監督は全く異なる仕事で、指導者の中でも監督とコーチでは大きな違いがある。

では、選手として経験したことが監督の仕事に生きないかと言えば、技術面での指導はもちろん、試合の流れを読む感性、修羅場を潜り抜けてきた勝負運など、監督としても生かされるもののほうが多いと思う。
ましてや、近頃の若い選手は指導者を値踏みする。自チームの監督やコーチが現役時代に実績を残していないと知ると、「あの人には言われたくない」と考えてしまうことも珍しくない。そうならないようにするには、仕事ができる人=チームを勝たせる監督でなければならない。

 自分の経験を伝えることは誰にでもできる。また、どんなに高い実績を残していても、経験できなかったことは山ほどある。だからこそ、できなかったことを徹底して勉強し、たとえ現役時代に目立つ実績を残していなくても、選手たちから一目置かれる指導者でありたい。