注目したいのは、創業者の泰秀が死んだ後の展開です。1939年版では植民地だった台湾から呼び寄せられた日疋(佐分利信)が以下のように言っています

「実は、あの病院、いよいよ志摩家の手から離れることになりました。株式組織にする決心をしたんです。その代わり、8分配当ぐらいの株を相当多数、志摩未亡人、つまり奥さんの名義で登録するつもりです」

 つまり、志摩家の個人財産から「離れる」と言っているのです。1957年版にも同じようなセリフがあり、日疋(根上淳)は志摩病院の医師を前に、以下のように述べています。

「院長が亡くなられてから3ヵ月。漸く遺産の整理も終わり、本日より、志摩病院は志摩家の管理を離れて、独立の法人となりました」

 ここからいえることは2つです。第1に、日本の医療提供体制は今も昔も民間中心である点です。イギリスでは戦後、医療提供体制が事実上、国営化されたのに対し、2つの映画とも志摩家の管理から移ることが日疋による「改革」として位置づけられています。言い換えると、イギリスのように医療提供体制の公営化が進まなかったことの証と言えます。

 実際には戦時中に「日本医療団」という官立組織が発足し、民間医療機関を買収していたほか、戦後も厚生省は1950年代後半ぐらいまで提供体制の公営化を志していた形跡があるのですが、2つの映画の間で構造に変化は見られません。

 第2に、法人化した後の形態です。1939年版の日疋が「株式組織」と言っているのに気づかれたでしょうか。実は、1938年に発表された同題の原作も「株式組織」となっているのですが、1957年版は単に「法人化」と説明しています。

戦後に株式会社の参入を制限
現在の主体は「医療法人制度」

 この違いは、1948年に施行された医療法が影響している可能性があります。戦前には株式会社による医療機関の経営が認められており、実は今も2016年度現在で42病院が会社運営なのですが、敗戦後に医療法が制定された際、医療機関には「非営利性」が定められ、株式会社が参入できなくなりました。

 それと入れ替わるような形で創設されたのが「医療法人制度」です。先の図で言うと、7割近くを占めている形態です。