水は「世の中そういうもの」という通常性をぶつけてくる

「水=現実を土台とした前提」は、通常性を基にして判断させようとします。理想や夢を高く掲げると、「世の中そんなに甘くない」とすぐに水を差す人が現れます。これは現実を土台とした否定的な前提を突き付けているのです。

 もし声高に主張すれば、理不尽なことも通ってしまうなら、空気と水はどうなるか。

「この理不尽な前提を受け入れさせてやろう!」=異常性を押し付ける「空気」
「常識的にそんな勝手が通っていいはずがない」=異常性に反論する「水」
「世の中そんなものですよ、残念ながら」=通常性としての「水」

 空気(願望的な前提)に、現実的な視点を提示し続ける(水を差す)と、次第に「これまでどおりで行くべきなのかな」となってきます。異常性に「通常性で」反論すると、最後は日本社会の慣習的な姿になるからです。前例主義のように、「水」が現状のゆがみも通常性として引き継ぐ悪循環に陥るのです。

「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである(*3)。

 現実を土台とした前提の「水」は、やがて日本社会の通常性に戻る作用を発揮します。その一つが「資本の論理」や「市民の論理」など、ムラが複数存在する情況倫理の世界です。そうなると、ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです。

水は空気の異常性に反応するだけ
(注)
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)P.103
*2 『「空気」の研究』P.129
*3 『「空気」の研究』P.158