戦時中、日本では竹槍でアメリカの爆撃機B29を落とそうとする訓練が行われていたという。物理的に考えれば届くはずがないのに、多くの人はこの竹槍訓練を行っていた。勇気ある人が「B29には届かない」と言ったとき、その人は一体どうなったのか。日本国民の多くが竹槍で戦う「空気」に縛られたとき、そこに「水を差す」人に対する恐るべき対応とは? 日本人が次第に「常識」に縛り付けられていく精神性の謎を読み解いた、日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をダイジェストで読む。新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開。

水(雨)は、あなたを別の形で拘束している

「空気」は、何らかの不都合な現実に対する対極的な世界観として、日本人を拘束してきました。

 一方で、「水を差す」などの表現にある、現実を土台とする前提の「水」、その連続としての「雨」は、ネガティブな方向、あれもダメ、これもできないという萎縮の拘束です。

 加熱した空気を崩壊させる「水」は、一見したところ私たち日本人を、「空気」の拘束から解放してくれる自由への道具だと思われました。

 しかし、無謀な空気を現実に引き戻す一方で、一般常識や現実的な視点に、私たちを拘束する別の鎖でもある。これでは、自由を求めていたはずの日本人は、希望を失わざるを得ません。

水はやがて日本人を「常識」に縛り付ける

 水の集合としての雨は、日本の文化的な常識(通常性)とも言えます。

「おじぎ」という奇妙な体型をとれば相手もそれとほぼ同じ体型をとるという作用が通常性的作用(中略)信号が赤になれば、田中元首相の車も宮本委員長の車も、反射的にとまるであろう。これが空間的通常性(*1)

 しかし、山本氏は恐ろしい指摘もしています。水と雨が、実は対極であるはずの「空気」を醸成する基盤になっていることです。

 われわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態をいつしか現出してしまう(*2)。

 対極であるはずの水が、その通常性ゆえに、日本人を拘束する「空気」に変容する。これは一体、何を意味しているのでしょうか。