仲間内で独立しようと話が盛り上がっても、ある人が「先立つ資金がない」と水を差せば、とたんにその場の空気は消えてしまう。しかし、時間がたてば、また同じような空気が生まれる。生まれた空気にいくら水を差しても、再び空気が現れるのはなぜか。
日本のあらゆる組織に表れる空気という妖怪。現代でも、日本人は空気に突き動かされると不可解な暴走をしてしまうが、日本人が空気に水を差せない謎を、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解く。新刊『「超」入門 空気の研究』から内容の一部を特別公開。

空気に対して「水を差す」ことは本当にできるのか?

 これまで「空気」という妖怪の危険性について解説してきましたが、一方で日本には、その場の空気を壊す「水を差す」という表現があります。「水を差す」の一般的な意味は、うまくいっていることを邪魔するなどです。

 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している(*1)。

 山本七平氏は、『「空気」の研究』の中で、空気と対峙する「水」の存在についても詳しく解説しています。

 山本氏が青年時代、出版仲間で自分たちが出版したい本の議論をしたときのこと。話がどんどん具体化していき、相当に売れそうだという気持ちになっていく。

「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同ではじめるか(*2)」という段階まで空気が過熱するも、誰かが「先立つものがネエなあ」と一言いうと、一瞬でその場の空気は崩壊してしまいます。つまり、資金問題という現実に直面して、空気が雲散霧消してしまったのです。

空気の暴走を食い止める「水」と「雨」

 山本氏は、「雨」を、「水」が連続したものと定義しています。

 われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば“現実”であって、しとしとと降りつづく“現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである(*3)。

 水と雨について、山本氏の記述から次のような関係性を導くことができます。

●水と雨の違い
・「水」とは、最も具体的な目前の障害
・「雨」とは、水の連続したもの、すなわち日本社会の常識や通常性(文化・習慣)

 私たち日本人は、空気に突き動かされたとき、非現実的な行動を誘発しがちです。それを防止する役割を果たすのが現実的な障害を意味する「水」、水の集合体としての日本社会の通常性、すなわち「雨」と指摘されているのです。

(注)
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)P.91
*2 『「空気」の研究』P.91
*3 『「空気」の研究』P.92