冷戦中に十余年にわたってアメリカに在住、UCLAの内科教授も務めた黒川清さん。日本では内閣特別顧問や東京電力福島原子力発電所事故の調査委員会委員長を務めるなど、幅広く一線で活躍されています。日本の閉鎖的な組織運営をよしとせず、歯に衣着せぬ黒川さんに、平成が終わろうとしている今、日本が「失われた30年」を過ごしてしまった構造問題や、ご自身の経験も踏まえて「独立した個」として生きる気概について、『ファイナンス思考』著者の朝倉祐介さんが聞きました。(撮影:梅沢香織)

朝倉祐介さん(以下、朝倉) 「平成」の時代が終わろうとしていますが、「戦争がなくていい時代だった」と言われる一方で、経済や社会の活力の面でいくと「失われた30年」という言われ方もします。その要因として、財政問題や人口減少問題が語られますが、それ自体はずっと議論されてきたことでもはや新鮮味はない。それでも、いまだにそうした問題が今日的なテーマであり続けているということは、30年もかけて何もできなかったということなのか、と感じてしまいます。

冷戦時代にUCLA内科教授も務めた黒川清さんが衝撃を受けた、留学先のボスの一言黒川清(くろかわ・きよし)さん
医学博士、政策研究大学院大学名誉教授
1969-84年在米中、米UCLA内科教授を経て、東京大学内科教授、東海大学医学部長、日本学術会議会長、内閣特別顧問、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会委員長などを歴任。現在は政策研究大学院大学・東京大学名誉教授、日本医療政策機構代表理事を務める。www.kiyoshikurokawa.com

黒川清さん(以下、黒川) グレイト・クエスチョンですね。平成を語るうえでは、大きなパラダイムの変化が二つあったと思います。一つは平成元年にベルリンの壁が崩壊した「冷戦構造の終焉」、二つ目に「インターネットの広がりの始まり」です。この二つによって、世界中のあらゆる情報がつながって、しかも変化のスピードが速くなった。その結果、いい意味でも悪い意味でも、今まで見たことのない混乱の世界が現れましたよね。

朝倉 平成との対比で考えると、極めて不幸な体験ではありますが、アジア太平洋戦争によって、既存の秩序が一度リセットしてゼロからの出発を余儀なくされたことを、昭和の日本はフルに活用できたのでしょうね。たとえば、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から憲法を改正しろと指示されると、3ヵ月ぐらいで骨子ができているわけですよね。修正提案などを経たものの、その2ヵ月後ぐらいにはもう完成している。農地改革のような大改革も、たかだか数ヵ月で実施できている。ソニーなど産業が立ち上がったのもこの時期でした。こうしたスピード感や躍動感は今の日本にはまったく感じられません。ある種のどさくさだからこそ、実現できた面も多分にあるのでしょう。

黒川 ただ、GHQにほとんど主導されてはいましたよね。パックス・アメリカーナ(超大国アメリカによって世界の平和が維持されていること)の始まりでしたし、日本は戦争に負けたんだから仕方なかったとは思うけど。あとは、アメリカが朝鮮戦争をするうえで、日本を工場などの後方基地として使ってお金を払ってくれたおかげで、モノづくりなどが盛りあがって一気に経済がよくなりましたよね。その後にベトナム戦争もあったし。すでにあるモノを、小さくしたり便利に加工するのは日本人は得意じゃないですか。金融とか目に見えないモノの扱いは不得手だけど。

朝倉 黒川先生がアメリカにいらっしゃったのは、まさに冷戦時代ですよね。

黒川 そうです。ベトナムで1968年に米国による北爆が始まった翌年、米ペンシルベニア大学に研究留学するため渡米しました。先輩の紹介による2年間の留学でした。私は学生運動や政治闘争に興味がなかったし、ちょうどいいなと。ちょうど東大紛争の終わり際、機動隊と学生の衝突で東大時計台が炎上した年の夏です。当時はジャンボ機もない。アポロ11の月面着陸をテレビで見た後、羽田を経ち、経由地のハワイに2泊したのがアポロのタッチダウンがあった時でした。

アメリカでボスに言われた3つのこと

朝倉 大きな目的意識があって、というわけでは最初はなかったということですか。

黒川 そう。でも行ってすぐ、内科医の背景もある生化学のチェアマンだったボスに「最初に言っておくことが3つある」と言われて、これが私の人生を変えた気がします。一つは「2年の留学期間中に、独立した研究者になること。そのためには、何の研究をやってもいい」。二つ目は、私は日本で内科と腎臓内科の研修を終えていたので「あなたは学生ではなくすでに一人前の医師なのだから、セミナーやカンファレンスでは自分の意見を言うこと」。この二つは、衝撃でしたよ。日本の医学界では自分のやりたい研究だけやるとか、目上の人に意見するなんてタブーだったから、驚きました。

朝倉 ずっと日本にいたままだと、気づかないような指摘だったんですね。

黒川 そうです。そして三つ目には「日本人の英語がうまくないのは知っているけど、理解できない時はニコニコしていないで、わからないときは、すぐに『わからない』と言うこと」。彼いわく、自分は日本の教授たちと違って、そんな偉くないし、君たちと対等なんだから、と。

冷戦時代にUCLA内科教授も務めた黒川清さんが衝撃を受けた、留学先のボスの一言朝倉祐介(あさくら・ゆうすけ)さん
シニフィアン株式会社共同代表
マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、東京大学在学中に設立したネイキッドテクノロジーに復帰、代表に就任。ミクシィへの売却に伴い同社に入社後、代表取締役社長兼CEOに就任。業績の回復を機に退任後、スタンフォード大学客員研究員等を経て、政策研究大学院大学客員研究員。ラクスル株式会社社外取締役。株式会社セプテーニ・ホールディングス社外取締役。2017年、シニフィアン株式会社を設立、現任。著書に、新時代のしなやかな経営哲学を説いた『論語と算盤と私』(ダイヤモンド社)など。

朝倉 同じアカデミアの世界でも、当時のアメリカと日本では、個々人の独立性にの違いがあったんですね。

黒川 おそらく基礎分野の人だから、研究者をいかに育てるかを重視していたんだろうと思います。でも私自身は、先方が指定するテーマを研究するものだと思って渡米したから、面喰っちゃってね。「何もやりたいことがなければ、いくつか提案してあげるよ」と言われたけど、それも悔しい。だから、1カ月ぐらい図書館に籠って、研究テーマを探しましたよ。向こうの図書館は24時間開いていて非常に感激しましたね。素直に「何かテーマをください」と聞けばよかったのだろうけど、コンチキショーと思って、先生の仮説はもしかして違うかもしれないと思っていろいろ論文も読んで実験を始めたけど、結局のところ彼の主張は正しかった(笑)。

朝倉 正しかったんですね(笑)。

コンチキショーが「独立した医師」となる原動力に

黒川 やってみてわかったのは、私は基礎研究には強い興味を持っていないということ、臨床のほうが好きだということでした。この時点で自分に何が向いているかわかったのは、よかったですけどね。だから2年の留学期間が終わろうとした時点で、ロサンゼルスのUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に私のペン大でのテーマに近い研究をしている腎臓内科のグループがいたので、あと1年だけ留学を延長する前提で、そちらに移ったんです。そうしたら面白くなってきて「あと1年やらないか」という誘いを受けました。留学したら3年未満で日本に戻らなければいけない暗黙のルールがありましたが、日本側にお伺いをしないままOKしてしまって、「ああ、これは東大ではもう破門だな」と思ったわけです。

朝倉 そのままアメリカでのキャリアを築いていかれるんですよね。

冷戦時代にUCLA内科教授も務めた黒川清さんが衝撃を受けた、留学先のボスの一言引くに引けなくなった、とユーモアを交えて語る黒川さん

黒川 いや「やっぱり帰りたい」とも思ったけど、かっこ悪くて言えない。だんだん怖い気持ちにもなる。東大の先生にお願いすれば帰してもらえただろうと思うんだけど、引くに引けなくなった。コンチキショーですよ。すでに30代も半ばでしたが、私のもつ日本の医師免許ではアメリカでは医師とも認めてもらえない。今まではお客さん扱いだったけれど、これからの競争相手はあちらの医師たちだからね。これはヤバイと思って、ときどき夜も眠れないくらい不安にもなりましたが、とにかくアメリカの医師免許をとる手続きを始めました。

朝倉 そうか。アメリカの医師免許を取り直さないといけないんですね。

黒川 そのために日本から成績証明書だとか大量の書類を送ってもらわなければならなかったのですが、当時のことですから、メールはおろかファックスもない。アメリカの大学や医師免許の当局などとのやりとりのために手紙も英訳したり、それが正しいことを証明してもらうとか、そんなにお金もないからビザ取得も自分でやったり……とにかく、昼は実験、夜と週末は医師の試験準備の勉強、と時間がかかって1年近く経ってしまいましたけど、どうにかアメリカの医師免許試験を受けられる許可をもらえた。あとは、受かるかどうか自分の問題だから、その勉強も夜や週末にしていましたよね。それも受かった。一応、十分な経験があるということでインターンは免除してもらえたけど、さらには内科や腎臓の専門医の資格も取らなくちゃというので、また申請、勉強、試験ですよ。かみさんにも「こんなに勉強するあなたは見たことない」って言われたよ(笑)。

朝倉 退路を断って臨まれてるわけですもんね。

黒川 内科専門医の試験は一度失敗したね。というのも、日米で考え方の違いがあるから。日本では、こういう場合はこうする、次は…とプロトコルが定められているから、「正解」を追いかける癖がついています。でも、アメリカでは状況に応じて、診断名を確定したり、あるいは、ある診断名の可能性を除外する検査を実施するなど、臨機応変に検討しないと、正解だからいい、ということにはしてくれません。その違いをもっと理解してから受け直したら、通りましたけど。

朝倉 そうした失敗も踏まえて、黒川先生の自主独立の姿勢が確立された印象があります。

黒川 そうだと思う。コンチキショーと思いながら、やっぱり自分で考えて行動する体験というのは大事ですよ。東大医学部の同窓会やOECD(経済協力開発機構)の基調講演でも話したテーマなのだけど、私がよく言うのは「体には三つの大事な器官がある」ということ。第一は「頭」。ナレッジですよね、早晩コンピュータに負けるけど、それでもあったほうがいいです。第二に「心」。これは実体験がモノを言うよ。それから第三に「へその下」。どちらかに腹を決める、ということ。「へその下」は、10歳までの育った環境で右か左か決まると思う。

朝倉 黒川先生は、代々お医者さんの家系のご長男なので、保守に傾きそうですけど…(笑)。

黒川 たしかに長男・長女だった両親の間に生まれた長男だっただから大事にされたしね。当時、オヤジが診療したお礼にと患者さんから届けられてたまに手に入る卵は「お兄さんから食べなさい」ってなったし(笑)。でも、どこかに反発したいという気持ちがあるから反主流の道を選んでしまうのかもしれない。(後編につづく