ギリシャ発の世界的ベストセラー『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ヤニス・バルファキス著、関美和訳)が日本でも話題となっている。本書が日本で刊行される前に、いちはやく英国版で読み、「近年、最も圧倒された」とまで絶賛の声をあげたのが、在英保育士・ライターのブレイディみかこ氏だ。何がそこまで氏を惹きつけたのか、その理由について寄稿していただいた。

あのバルファキスがこんなかわいい本を……

 ヤニス・バルファキスの『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の英国版が発売されたのは2017年の秋、ちょうど書店でクリスマス商戦が始まる時期だった。

 この本の英国版ハードカバーの装幀は、実はかわいかった。緋色の布地がかかったような凝った質感のカバーにタイトルが刺繍っぽい筆記体で施され、洒落た雑貨屋で水玉の食器やテディベアの隣に並んでいてもいいようなデザインだった。

『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』英国版(『Talking to My Daughter About the Economy』)

 そのほんの数か月前にEUの内幕を暴露したベストセラー『Adults in the Room』(『黒い匣 密室の権力者たちが狂わせる世界の運命』明石書店)を出した人の新刊にはとても見えなかった。あのバルファキスがまたなんでこんなキュートな本を出しちゃったのか、と思って手に取った。

 ちょうど『そろそろ左派は<経済>を語ろう』(亜紀書房)という鼎談本の出版準備をしていた頃だったせいもある。冒頭の、誰もがきちんと経済について語れるようになることが本物の民主主義を築くための前提条件という彼の主張や、市場は民主主義を脅かすこともあるが、経済が人間の魂の奥に入り込んで夢や希望を生み出すこともあるという記述に思わず胸が熱くなった。あの眼光と舌鋒の鋭い経済学者がこんなエモい本を書いたのかと驚いたわたしは、もうそのかわいい本を一冊買って帰るしかなかった。

資本主義ではなく市場社会

 バルファキスは本書を通じ、「資本主義」という言葉を使っていない。その理由について、「この言葉につきまとうイメージのせいで、本質が見えなくなってしまうと思った」と書いている。たしかに「資本主義」にはあまりに多くのイデオロギッシュなミソがつき過ぎている。代わりに彼は「市場社会」という言葉を使っている。「市場経済」ではなくて「市場社会」だ。

 英国のサッチャー元首相は市場経済に代わる「オルタナティヴはない」、「社会は存在しない」と言ったが、バルファキスは市場経済の「オルタナティヴはある」、「社会は存在する」と言っているようでもある。

 市場社会におけるすべての富は借金によって生まれ、市場社会にとっての借金はキリスト教にとっての地獄と同じで、近寄りたくはなくとも欠かせないものなのだと彼は書く。バルファキスは、ゲーテのファウストとディケンズの『クリスマス・キャロル』のスクルージを例に出し、2人のうちどちらが市場社会のニーズに合っているだろうかという問いを投げかける。答えはファウストだ。もし人々がスクルージのように借金もせず、カネを使いもせず、ひたすら貯める吝嗇家ばかりだったら、市場社会の経済は止まってしまうからだ(ちなみに、過去9年間にわたって厳しい緊縮財政政策を進めてきた英国政府は「スクルージみたいな政府」と庶民によく批判される。政府がスクルージになると国はどこまで混迷するかという恰好の例をブレグジット・ブリテンはいま世界にお見せしている)。