公的債務はウィルスではないとティーンに説くこと
本書でバルファキスは、銀行がお金を生み出す力を持っていることをこんな風に説く。
早合点しないでほしい。「預金者が預けたおカネ」は不正解。
正解は「どこからともなく魔法のようにパッと出す」。
では、どうやって?
簡単だ。銀行の人が5という数字の後ろにゼロを5つつけて、ミリアムの口座残高を電子的に増やすだけ。
銀行はペン1本で、あるいはキーボードをたたくだけでおカネを生み出せる魔法の力を持っていると娘に教えたバルファキスは、中央銀行も同じように「どこからともなくおカネを出せる」と言う。そして銀行と政府、起業家、労働者は互いに持ちつ持たれつ、依存し合って社会を回している関係であることを説いた後で、ズバリと公的債務の問題に切り込んでいく。
もちろん、銀行だ! 銀行はどこからおカネを持ってくる?
もう言わなくてもわかるだろう。ミリアムに貸し付けたときと同じで、どこからともなくパッと出す。(中略)
国家を民間企業の敵と批判する人たちは、国家が身の程をわきまえず収入以上に支出すると大惨事が起きると言う。だが、そんなのはたわごとだ。
もちろん、公的債務があまりに増えすぎると大問題が起きることもあるが、少なすぎても問題なのだ。なぜか? 魚は水がなくては生きられないように、市場社会において銀行は公的債務がなければ生きられないからだ。公的債務がなければ市場社会は回らない。
とくに公債の部分を取り上げたのは、これこそがいま彼が取り組んでいる「大仕事」に直結した章だからだ。「公的債務は天然痘ウィルスのように根絶しなければならないもの」という誤った考えが広められた社会で育つティーンたちに、本当のことを教える重要性をバルファキスは誰よりも知っている。
欧州の緊縮主義と戦う
バルファキスはギリシャ債務危機のときに同国の財務相としてEUとの交渉にあたった人物だ。当時、日本では、「放漫財政で債務危機に陥ったくせに何をふざけたことを言っているのか」という論調が多かったように記憶しているが、バルファキスはEUから突き付けられた緊縮財政政策に対し、大幅な債務帳消しを主張した。が、それは叶わず、バルファキスは財務相を辞任した。しかし彼が政界から消えたわけではない。2016年にDiEM25(「欧州に民主主義を」運動2025)という国境を越えた組織を立ち上げ、2025年までにEUを抜本的に改革し、欧州に真のデモクラシーをもたらすという目標を掲げて運動を展開している。
庶民の生活や心情がわからないエスタブリッシュメントと、排外的な極右ポピュリズム勢力。欧州はこの二つに引き裂かれているが、人々のEUへの信頼を取り戻す左派勢力が必要だと彼は言う。DiEM25が打ち出しているのは、グリーン・ニューディール政策だ。欧州の人々――とくに彼が全身全霊をかけて守ろうとしたギリシャの人々――を苦しめ、欧州に混乱をもたらした元凶ともいえる緊縮主義を終わらせ、大規模なグリーン投資を行い、良質な雇用を創出し、経済停滞を終わらすことで欧州の人々のデモクラシーへの信頼を取り戻すという。
海の向こうの米国でやはりグリーン・ニューディールをスローガンにしているのが、最近MMT(現代貨幣理論)という経済理論の支持者として話題を呼んでいる米下院議員のアレクサンドリア・オカシオ=コルテスだ。バルファキスは、バーニー・サンダースともプログレッシブ・インターナショナルという組織を立ち上げている。
「暗い予感」が世界を崩壊させる前に
昨年5月にシアトルの大学で本書について講演したときのバルファキスの動画がYouTubeで公開されている(2019年5月11日閲覧)。その中でバルファキスは「デフレはモンスターをつくる」と明言している。彼の言う「モンスター」とは、「ファシズム」であり「レイシズム」だ。
彼はこうも言っている。支配者はむかし、政治と経済の両方の権力を持っていたが、そのうち政治と経済が分かれていった(そして経済もまた金融と製造に分かれた)。しかし、いま必要なのは経済を政治に戻すことだと彼は主張する。そして、「経済は土木工学のプロジェクトではない。経済は社会だ。経済は私であり、あなたなのだ」と熱弁している。
今年の初め、テレビや雑誌、新聞などで、知識人たちが「今年はどんな年になりますか」という質問に答えていたが、「2019年はいよいよ大変なことになる」「最悪の状況になる覚悟が必要」という暗い回答ばかりの中で、「欧州の春」などと素っ頓狂なことを言ってる人がいるぞと思ったらバルファキスだった。
彼は本書でも「オイディプスの神話のように、崩壊を予期するだけで、経済は崩壊してしまう」と書いているので、世界経済を崩壊させないために、ハッタリをかましているのだろうか?
いや、彼は本当に欧州に春をもたらすためにダイナミックに動き回っている。新たなニューディールを実現するために自ら欧州議会選に出馬さえした。『絶望する勇気』という本を書いたスラヴォイ・ジジェクが、「バルファキスのような人物がいる限り、まだ希望はある」とまったく自己矛盾するようなことを言ってしまうのも、バルファキスとはそういう人だからだ。
前述の動画で、バルファキスはデモクラシーを「いつも踏みつけられてきた最も壊れやすい花」と呼んでいる。そしてそれは、議会政治の中だけでなく、わたしたちの生活、つまり経済の中にこそ咲かせなければいけないのだという、いま何よりも重要なことを本書で若い世代に伝えようとしている。その熱い決意を感じたからこそ、わたしはこの本を2018年の月刊「みすず」1・2月合併号の読書アンケート特集で「近年、最も圧倒された本」と紹介したのだった。
ちなみに、バルファキスは1年半も娘に本書を読むよう懇願し続け、やっと読んでもらったという。「どうだった?」と尋ねた父に、娘はこう答えたそうだ。「あなたにしては、悪くない」。
闘う経済学者が書いた小さな花のようなこの本が、日本でも多くの若者たちに読まれることを祈っている。