わかりやすい説明から抜け落ちる何か
数年前、教えていた大学で入試の面接を担当していた際にも、驚かされたことを覚えています。
「最近、読んだ本を教えてください」という質問を投げかける。すると多くの若者がその年のベストセラー上位に入っている本を挙げるのです。「『世界の中心で愛を叫ぶ』を読んで、すごく感動しました」と何のためらいもなく答える。
別に「セカチュー」自体がダメだ、もっと難しい本を読め、といっているのではありません。ですが、人一倍、自分らしさや個性を大事にしている最近の若者が、なぜ他の人と同じ物を買いたがるのでしょうか。単純に不思議でならないのです。
しかも、世の中を見渡せば価値観の多様化に合わせて、選択肢はむしろ増えている。であるにもかかわらず、です。いや、逆に選択肢が増えすぎて、選べない人が増えているだけかもしれません。
あるいは、「売れていないけれどいい物」といった、説明くさい、まどろっこしい価値観は求められていないのかもしれません。めんどうな説明なしに、「売れている=いい物」「売れていない=よくない物」といったものさしのほうが、わかりやすい。今の時代にも合っているということなのでしょうか。
しかし、と私などは思ってしまうのです。
買い手は「売れている物を買う」、売り手は「売れる物を作る」。そのせめぎあいが行きつく先は一体どこなのだろうか、と。
ある経済評論家は、堂々とこういいきります。「いいものに対しておカネという明確な評価が返ってくる。これこそがわかりやすくて平等なシステムである」と。
商品Aが200個売れた、商品Bが240個売れた。だからBのほうがすぐれている。それは、確かにものすごくわかりやすい。誰に対しても説明抜きに通じる理屈です。でも、果たしてそれでいいのでしょうか。わかりやすい説明から抜け落ちてしまう何かとても大切なものがあるような気がしてならないのですが。