絶望からの救済はどうやってなされる?
さらに絶望には諸段階があるとされます。それは自分が絶望であることを知らないことから始まります。「自分が絶望であることを知らないでいる絶望」はもっともレベルの低い絶望とされます。テンションの高いときが実はもっとも危ない状態です。動物が絶望しないのと同じく何も考えていない状態なので、いつかは必ず絶望を自覚するようになるのですが、そのときは遅いかもしれません。絶望予備軍のようなものです。
次の段階は「自分が絶望であることを自覚している絶望」ですが、これは次の2つの段階に分かれます。それは「弱さの絶望」と「強さの絶望」です。「弱さの絶望」は快楽や幸運に見放された自分に絶望して現実逃避する状態と自分の弱さにムカついているという2つのあり方です。
「強さの絶望」は自我の絶対性をもつ傲慢な態度です。世の中が理解してくれないのは、自分のレベルが高いからだと主張しながら頑固に屁理屈をとなえて生きる絶望状態です。人の意見を聞かず、内側に閉じこもって、どうどうめぐりをしています。だれも指摘してくれないので悲しい絶望ですね(まあ、みんなそうですが……)。
さらに、「罪としての絶望」へと進む場合があります。この段階では神の観念をもちながら、絶望したままでいるという罪の状態です。最後の希望にも背を向けていますので、「死に至る病」の極限状態になっているとされます。
こうしてキルケゴールは、絶望についての詳細な分析を加えるのですが、結論としては、やっぱり人間は絶望する方がよいということです。というのは、人間は動物以上であり、自己意識をもつからこそ絶望しうるわけです。意識が増す(自己をみつめる)ことでいろんな挫折を感じ、「このままではいけない!」という焦燥感が強まってくるものです。
このとき、別な人間になろうと決意をしなかったり、絶望して自分を憎悪しつつも、みじめな自分自身でありつづけようとする態度はよくありません。だから、絶望を人生の成長として捉えることが大切なのです。
「絶望」は人間だけがかかる病気である。それは人間が動物以上の存在である証拠なのだ。あとは、それに対して、目を背けずに、自分がいかに主体的に関わっていくかが重要だ。