あせって仲介業者を1社に絞ったばかりに…
これまでの常識では、このような問題のない会社が事業承継を急ぐケースはあまりありません。ただ、63歳のオーナーの病気がわかり、早めに事業承継を成立させたいと仲介会社に依頼したのです。
仲介会社もオーナーの事情を察し、早くまとめてあげたいという思いが強くなっていたようです。
先ほどの計算でも明らかなように、現預金が1億5000万円あるので、純有利子負債は1億5000万円です。しかし、実際には借入金として貸借対照表に3億円が計上され、5年返済の約定によって毎年6000万円の元本を返済しなければならない現実があります。
ところが、この「毎年6000万円の元本返済」という言葉がひとり歩きし、オーナーにも仲介会社にもあせりが生じてきます。
「毎年6000万円を返済しないといけないのに、営業利益は4000万円しかない。
借入金には病気のオーナーの個人保証も入っている。
もし、銀行から急に返済を迫られたらどうしよう。
もし、急に業績が悪化し、赤字になったらどうしよう」
病気で気が弱くなっていたオーナーに、そんな不安が強くなっていきます。
とにかく早く決着をつけてほしい。
複数の業者に売却価格を算出させて比較することもせず、仲介会社を1社に絞って急がせます。
実は売却額が相場の3分の1以下だった
このケースでは、仲介会社に悪意はありません。とにかくオーナーの要望に応えることしか頭になかったようです。しかも、この仲介会社の担当は、企業の株式価値を算定する目安となる指標を知らない節がありました。
「今まで蓄積してきた純資産が1億円ですし、オーナーが病気になったからには今後の業績がどうなるかわかりません。純資産と同額の1億円で売れれば十分なのではないでしょうか」
M&Aの知見があれば、このような言葉は絶対に出てきません。
しかしオーナーは、不安から解放されたい一心で、無知な仲介会社の言葉をうのみにしてしまいました。
割安な価格で売りに出された案件を、会社の買収と売却を繰り返して利益をあげる投資ファンドが見逃すはずはありません。結局、この会社は投資ファンドに1億円で売却されてしまいます。
もちろん、その時点でオーナーは借入金の個人保証から解放され、将来に対する不安が取り除かれたプラス面は否定しません。
ただ、買収した投資会社は、売り手企業のシナジーを得るために事業を買ったわけではありません。会社の内容のわりに売却価格が安かったから買っただけです。
現に、投資会社は1億円で買ったこの会社を、わずか1年半後に3億5000万円で売却し、2億5000万円の利益を手にしています。