「させていただきます」の背景にある「お蔭」という観念
今回はレゲエの神様とも呼ばれるボブ・マーリーの、『CATCH THE FREEDOM』という彼のメッセージを集めた本に載っている言葉からです。
安楽寺さんの投稿には以下のコメントが添えられていました。
ちゃんと「感じられる人」でいたいと思いました。当たり前と思っている自分はご恩に気づけず、ありがとうの言葉が出てきませんでした。
確かに雨でも何でもまわりのものを当たり前と思って生きていると、それらに対する有難さを感じることができず、感謝できなくなってしまいます。みなさんもそのような生き方をしていませんか?
万有引力を発見したことで有名なアイザック・ニュートンは、手紙の中で以下の有名な言葉を残しています。
私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです
( If I have seen further it is by standing on the shoulders of Giants.)
これは自分自身による発見以前に無数の先人の努力の積み重ねがあり、その巨人の肩の上に乗っていたからこそ新しい発見ができたという意味です。発見を自分一人の手柄だと思わず、「多くの先人のかたがたのおかげ」という感謝の気持ちを持っていたことが分かります。まさに「おかげさま」の感覚ですね。この感覚は先人の努力や業績を当たり前のものと思っていたら決して出てこないものです。
ちなみに「おかげさま」という言葉は非常に英訳することが難しいそうです。なぜなら日本語の「おかげさま」という言葉には目に見えない神仏のおかげという意味も含まれているからです。
私は浄土真宗のお寺に生まれました。小さい頃から、周りの人が「おかげさまで○○させて頂きました」と話しているのを耳にすることがよくありました。
以前、司馬遼太郎の『街道を行く』を読んでいたら、興味深いことが書かれていました。
この語法(「させて頂きます」という語法)は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。この語法は絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。
(司馬遼太郎『街道を行く24 近江散歩、奈良散歩』朝日文庫)
この語法(「おかげさまで○○させていただきます」)の発祥は浄土真宗の教義からではないかと指摘しつつ、最後に「いまは語法だけになっている」とおっしゃっています。なかなか厳しい見方ですね。
決して表面上の語法だけでなく、しっかり心の中で「おかげさま」と感じて、感謝できる人間でありたいものです。
今年も7月1日より「輝け!お寺の掲示板大賞2019」がはじまりました。全国のお寺の掲示板作品を10月31日までお待ちしております!
なお、当連載をまとめた書籍『お寺の掲示板』が9月26日に発売されます。お手に取ってご覧いただければ幸いです。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)