挨拶を返さないと、なぜダメなのか?

「どうやら気づいたようだね。正義くんが、今言った何気ない言い方は、ようするに、『働いてお金を稼いで生きる資本主義システムにおいて、通用しないからダメだ』と言ったわけだ」

「そうです……ね。自分では、普通に悪いことは悪いと言ったつもりなのに、知らず知らずのうちに、自分が生きている社会システムの価値観で答えていました」

 ちなみに、僕は、その回答以外にも「挨拶を返さないと、非常識だと思われて人から嫌われるぞ」という単純な諭し方も思いついていた。でも、これも同じで「じゃあ、なぜ嫌われたらダメなの?」と、もし問われていたら「だって、得しないじゃん」と即答していたと思う。

 これも、やはり、資本主義システムからの影響が無意識に出てしまった回答であるのが丸わかりだ。

「挨拶を返さないとなぜいけないか? 本来なら、さまざまな回答の可能性があったはずだ。たとえば、『挨拶とは、今日というかけがえのない一日に、互いに出会えたことを喜び合う行為である。だから人生を感動的に楽しみたいなら自分のためにも積極的に挨拶をするべきであろう。だが、もし、キミがそんな気分でなければむしろ挨拶はするべきではない。自発的に他者と今日という奇跡を分かち合いたいときに行えばいい。それが真の挨拶なのだ』と言ってもよかった」

「いや、むしろ、『挨拶とは何か』をちゃんと考えるなら、そう答えるべきだったとすら言えるかもしれない。だが、多くの人は、本来の意味を省みることもなく、自分が生きる社会システムの価値観で無意識に答えてしまう」

と言って、先生は、突然、教卓の上にトンッとコップを置いた。

 いや、実際にはコップはそこにはなかった。パントマイムみたいに、手でコップを持っているように見せかけただけであった。先生は、その架空のコップに今度は水を注ぐようなジェスチャーをする。

「仮にここにコップがあり、そこに水を注いだとしよう。すると、水はこのコップの形になるわけだが……もしかしたら、水はこう言うかもしれない。『僕は自分の意志でこの形になったのだ』と。だが、それは幻想であり、事実は『たまたまコップがそういう構造をしていたから』にすぎない。

 実際、花瓶を持ってきて水を入れ替えれば、水はあっさりと花瓶の形になるだろう。つまり、水の意志など最初から関係なかったということだ。さあ、ここまで言えば、構造主義がどういう主義で、人間をどう捉えているかわかったのではないだろうか」

 うん、今の説明でよくわかった気がする。

 ようは、身も蓋もない人間観。今の話の場合、「コップ」は社会の構造で「水」は僕たちの思考のことだが―まさにそのたとえの通り、人間はただ構造に合わせて考えさせられてるだけにすぎないということ。

 これはたしかに右側の系譜、理想もへったくれもない現実的な哲学思想だ。そして、なるほど、だから「構造」主義と呼ぶのか。

次回に続く。