急速な人口増に耐えかねて
民間事業者に地下鉄開発を委ねた

 最初に地下鉄建設に向けて動きだしたのは、前述の地下鉄の父こと早川徳次であった。視察先のロンドンで地下鉄の有用性と先進性を目の当たりにした早川は、当時、路面電車の殺人的混雑が問題化していた東京にも地下鉄建設が必要だと確信。1916年に帰国すると地下鉄建設運動を開始する。

 それ以前にも東京に地下鉄構想がなかったわけではないが、早川は都心の地質、地下水位などを独力で調べ上げ、政治家や資本家に地下鉄は実現可能であると訴えかけたのだ。

 折しも第一次世界大戦の特需で日本経済は急成長し、東京府(現在の東京都)の人口は1915年から1920年までの5年間で約280万人から80万人以上も増加。交通混雑はますます激化し、東京市(現在の東京都特別区の前身)も地下鉄網の整備に積極的な姿勢を示すようになっていた。

 ところが、1923年に関東大震災が発生。国家予算が15億円の時代に50億円とされる甚大な被害が生じ、東京市は市域の4割以上が焼失してしまう。政府と東京市は「帝都復興事業」に着手するが、当初30億円を見込んだ予算が6億円まで削減されたことで、地下鉄整備は延期されることになってしまったのである。

 当時の地下鉄計画は5路線の整備が予定されており、そのうち4路線(2~5号線)は東京市の担当であった。残る1路線(1号線)の建設は、将来的に東京市の地下鉄に統合されるという条件付きで、最初に出願した東京地下鉄道に認められた。つまり、東京の地下鉄は東京市の手によって整備され、運営されていく計画だったのだ。

 実際、営団地下鉄が民営化した東京メトロと、大阪市営地下鉄が民営化した大阪メトロを除けば、日本の地下鉄は全て公営地下鉄である。莫大な建設費が必要で、都市計画とも密接な関係にある地下鉄は、都市が主体となって整備するのが世界的な常識だからだ。

 しかし、東京市の地下鉄整備は遅々として進まなかった。東京地下鉄道は1927年に浅草~上野間を開業させ、徐々に路線を延ばしていくが、東京市は地下鉄の建設費を確保できずにいた。そうしている間にも、震災復興の進展とともに東京の人口はますます増加していき、1930年には震災前を大きく超える約540万人に達していた。

 東京市はやむなく地下鉄の免許を民間企業に譲り渡し、市の代わりに地下鉄を建設させることを決定。それこそが銀座線の新橋~渋谷間を建設した東京高速鉄道だったのである。