「有り難い」の反対は「当たり前」
今回は広島市にある超覺寺の掲示板からです。これに似た文言としては、東京都台東区の谷中にある金嶺寺が、パナソニック創業者である松下幸之助氏のこんな言葉を載せていました。
感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく
このように感謝することを勧める文言が複数のお寺で掲示されているのですが、それはなぜでしょう?
感謝するとき、わたしたちは「有り難う」という言葉を発します。この「有り難う」という言葉は、諸説ありますが、仏教に由来しているともいわれています。『法句経(ほっくきょう)』の中の「ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし」という一節がそれに当たります。
「有り難う」の本来の意味は、「命の貴重さや尊さに対して感動を表明した言葉」であり、それがいつの間にか感謝する際に用いられるようになったのです。ですから、「有り難う」と感謝の意を表すとき、実は同時に「これはめったにない貴重なことだ」という暗示や感動を自分自身の心に与えているのです。
この「有り難い」の言葉の反対は「当たり前」になります。
日常生活を送っていると惰性に陥り、多くのものが「当たり前」の存在になってしまいがちです。「毎朝目が覚めること」は「当たり前」のことだと思いがちですが、朝になっても目が覚めず、そのまま亡くなる人も少なからずいます。ただ、だからといって、「毎朝目が覚めること」に対して「有り難い」と感動を覚える人はほとんどいないのではないでしょうか。
仏教的にいえば、「諸行無常」や「縁起」の理がはたらいているこの世界において、「当たり前」のことは1つもありません。すべては「有り難い」ことなのです。
しかし、さまざまなことをわたしたちはすぐに「当たり前」のものと錯覚してしまいます。「電気を使って生活できること」も「お風呂に入ることができること」も「当たり前」だと勘違いしていますが、災害など非常時になってはじめて、わたしたちはその「有り難さ」を悟るのです。
何でも「当たり前」と思ってしまうと、そこには感動や幸福が生まれません。精神科医の斎藤茂太先生は「素敵な夫婦関係の決め手は、『ありがとう』のたった一言」とおっしゃっていました。それは「有り難う」の一言が、日常の「当たり前」な出来事を貴重な素晴らしい瞬間だとお互いに認識させてくれるからです。
「有り難う」と数多く言えば言うほど、「当たり前」というゆがんだ認識が正されていきます。そして、さまざまなことに感動を覚えるようになり、まさに掲示板の言葉どおり「感謝しているから幸福」になるのです。
感謝することに関しては習慣による部分が大きいと思います。どんなささいことに対しても感謝の心をもって、「有り難う」と言える習慣を持ちたいものです。
ところで今回、この連載もおかげさまで56回となりました。このたび、当連載をまとめた書籍が発売されました。書籍化にあたり、内容にかなり加筆修正を加えましたので、連載をお読みの皆さんにも、改めて楽しんでいただけると思います。書店で見かけた折には、ぜひ手に取ってご覧ください。
連載がこのように長く続いていると、わたしにも「当たり前」の感覚が出てきてしまいそうですが、この連載がこうして続けられるのは、ひとえに掲示板を書かれた寺院関係者や撮影・投稿者、読者のみなさまのおかげです。
本当に有り難うございます。
今年も7月1日より「輝け!お寺の掲示板大賞2019」がはじまりました。全国のお寺の掲示板作品を10月31日までお待ちしております!
なお、当連載をまとめた書籍『お寺の掲示板』が9月26日に発売されました。お手に取ってご覧いただければ幸いです。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)