投稿など、無理にしなくてもいい。受け取るだけでも十分では?

 カラオケでは自分が歌うよりも聴いていた方が楽。難しいことを考えずに、ただ流れてくるテレビの映像を観ていたい。そんな時がある。たいていの人間は、いつでも自分が主人公として表舞台に立ち続けたいとは思っていない。だからこそ、「受け身」な自分だって必要なのだ。

 しかしどうだろう。ソーシャルメディアが我々の日常に入り込んでから、タレントでも著名人でもない自分が、人前にさらされる頻度が多くなった

 たとえば次のような話は、ソーシャルメディアの中に深く浸ったことがある人がしばしば体験しうるものだ。

 10年来の朝の日課である5キロのランニング。いままではひとり密かな日課に過ぎなかった。ある日から、毎朝のランニング風景や走りながら思ったことを、Facebookに写真付きで投稿するようになった。そうすると、たくさんの人から「いいね!」を押してもらえたり、コメントが寄せられた。これは今までにない衝撃的な喜びとなった。結果、いままでの孤独な日課が、嘘のように公の日課に変った。それからというもの、通勤、仕事、週末の余暇、旅行、あらゆるものがFacebookの投稿ネタとなった。そう、人から承認してもらえる、あの衝撃的な喜びにすっかり取りつかれてしまった。はじめのころは、ざっと1日3回は投稿していた。それが次第に増え続け、1日平均5回以上、多い時には10回は投稿するようになった。旅行に行けば、巡る場所の写真とコメントをまめに投稿する――。
  そのような投稿ライフを1年も続けてみたら、ちょっと疲れてきた。自分の生活や思いを露出し続けること、気づけば「ウケる」投稿ネタを探し続けるようになっていたこと。そんな自分に疲れを覚えしまった。

 確かに、これでは疲れてしまうのもわかる。もちろんソーシャルメディアの中で「承認される喜び」は理解できる。しかし、そこに浸りすぎると、やがて疲れの温床にもなりうる。

 その時は、ソーシャルメディアへの参加は、イコール投稿することだけではないことを思い出そう。投稿など、無理にしなくてもいいのだ。

 実際、僕の知人の専業主婦で、FacebookからPinterestに「すみか」を移した人がいる。

 気が向いた時には、彼女もお気に入りの画像を「ピン」するのだが、そこで過ごす時間の大半はただ眺めているだけとのこと。見ていると、思わず「素敵!」と叫びたくなるような画像が秒単位で流れてくる。

 Facebook疲れの自覚症状を感じ始めたタイミングで、なんとなく出会ったPinterestだが、次第にハマっていったらしい。インテリア、ファッション、レシピ。それらたくさんの画像(投稿者ではない)から元気な気分をもらえるのだという。

 それらに刺激を受けて、自分も画像を「ピン」することが増えているのだそうだが、あくまでも気が向いた時だけ。気まぐれでよいからこそ、居心地が良いのだろう