全面的に文化庁所管の予算で行われる“国の事業”であれば、そうした予測を含めた詳細な見積もりも必要かもしれないが、文化庁からの補助金は、トリエンナーレ全体の予算のごく一部である。

 文化庁が予算の一部を補助するにすぎないのに、事業の安全性まで詳細に把握すべきだとなると、文化庁自身が「安全な企画」についての定義を明確にしておく必要がある。

 そうでないと、補助金申請に際して事業者は無駄に気を使うことになり、加計問題で散々批判された“忖度”が働きやすくなる。

行政は展示内容に
口出ししないのが正しいのか

 ただ今回の本質の問題は、その後の(5)と(6)の論点だ。

 政治や行政が、個別の作品の是非について細かく口出しするのは、表現者を萎縮させることになるので、「表現の自由」(憲法21条1項)を保障するという観点からすると、望ましくないのは間違いない。

 ただそのことを「検閲」であり、憲法の規定に違反するとまで言い得るかは疑問である。

 普通の国語的な意味としては、検閲というのは、印刷物などを当局が事前にチェックして、不適当と思われる表現が見つかれば、その一部または全部を公開できない状態にすることである。判例で「検閲」と呼ばれているのも、行政によるそうした行為だ。

 今回の不自由展で問題になった作品の場合、トリエンナーレへの出展を取りやめて、芸術家自身のイニシアチブで展示することは可能だったと思われる。

 公権力が直接的に強制しなくても、公開するのが難しい状況を作り出すのも「検閲」であるとする、あるいは、少なくとも憲法21条の主旨に反する「事前抑制」だとする憲法学説もあるようだ。

 だが、今回の騒ぎで、少女像などを公共の場で展示することが極めて困難になったとはいえない。誇張であるように思える。

 さらに言えば、公的資金を投入した文化的イベントでは、「表現の自由」の見地から作品の内容に一切、口出しすべきではないというのが政治や行政の正しい態度なのかだ。

 大村知事らは、政治・行政が展示の中身を問題にするのは憲法違反の疑いが強いので許されない、と言っていたが、それは芸術関連の行政をあまり知らない人の抽象的な法律論である。

 公的な空間での、特に公共機関からの支援を受けての展示に適さない作品は現に存在する。