だから「東南アジアのように実践的な『聞く』『話す』に力点を置いた英語教育をすべきだ」という結論は、わからないこともありません。しかしそうだとしても、理解しておくべき前提条件の違いがあります。

東南アジアの英語力の高さは
日本のそれと質や背景が違う

 東南アジアの人々の英語力が高い理由は、そのほうがストリートで生き残りやすいからです。欧米人と話が通じて、ビジネスができたほうが儲かる。だから、耳から英語を覚えて話せるようになる――。これは終戦直後の日本人が置かれた状況と同じです。進駐軍が来て彼らと会話ができると、米軍基地に出入りしたりして、いい仕事が手に入る。だから終戦直後の日本人には、英語が得意な人がたくさんいたのです。

 一方で、その英語力は極めて生活的です。たとえば、こういう話を聞いたことがありませんか。帰国子女で英語がぺらぺらな人が、社会人になって外資系企業に入ると、どうもうまく英語が通じない。話を聞いてみると、小学校までしか海外にいなかったりする。こういう人は日常会話はできますが、ビジネス的な会話が噛み合わないのです。

 実は、東南アジアのマーケットで流暢に英語を駆使する現地人や、終戦直後の日本人、そして小学校時代を海外で過ごした帰国子女に共通するのは、「聞く」「話す」力は備わっていても「読解力」が不足している、ということです。

 ここで、昭和時代の試験の話に立ち戻ります。私も高校時代、英語の先生に「なぜ外国人とコミュニケーションするのに役に立たない英語のカリキュラムばかりやらされるのか、さっぱりわからない」と噛み付いたことがあります。実は大学に入ってからも、同じ質問を教授にしたことがあります。

 そのとき、お2人とも同じことを私に諭してくれました。それは、「君たちは英語の論文を読む読解力を鍛えるように教育されているのだよ」というものでした。

 これは少なくとも、昭和時代の日本の国家的な要請に極めて合致した方針でした。敗戦後の日本は、頑張って急速に欧米にキャッチアップしなければならない立場にあった。そのために一番重要な能力は、欧米の進んだ技術や理論を学ぶための読解力なのだ、という考え方です。