最初に来た情報でも、確認してみると違っていることもある。ある学校では、倒壊したと電話で聞いて、後で行ってみると、どこも壊れていなかった。そのとき出た情報はすべて、わからない状況。情報があれば、ホワイトボードには書きとめていって、情報はどんどん書いていったものの、正しいのかどうかは確認できなかった。

「当時の記録は、誰かが亡くなったとか、学校がどうなったとか、どこに避難しているかという情報が最優先。誰が連絡員を務めたかなどというのは、空いている人が対応しなければいけない状況で、『誰が』なんて指示はありませんでした」(山田課長)

ヒッチハイク・徒歩で駆けつける人も
校長が続々と報告義務のため市教委へ

 3月11日の夜、最初に学校現場から駆けつけてきたのは、門脇小学校の当時の鈴木洋子校長だ。

「校舎は津波で火事になりましたが、学校にいた子どもたちは皆、日和山へ避難させました」

 そう鈴木校長から報告があった。しかし、気づくと、市役所の周囲は、みるみる1メートル50センチ余り冠水して車が出せなくなり、鈴木校長は、児童たちの避難場所には戻れなくなっていた。

 こうして閉じ込められている間も、旧市内の釜小学校では、教師たちが校舎から本棚を降ろして舟にして、流れ着いた人たちを泳いで助けるなど、各校で教職員らが住民の救出劇に追われた情報が寄せられた。ただ、市教委から助けに行こうにも、車も出せない状況だったという。

「その頃、行方不明者の数が5000~6000人と聞いて、どうやって学校に連絡をとろうかと考えていました。ちょうど入試が終わって、発表も控えていたんです。防災対策課のほうから、学校がもうダメだと聞いていたので、子どもたちの試験はどうなるんだろうとか、いろんな心配をしていました」(山田課長)

 12日になると、学校に遺体がたくさん上がって、教師たちが収集作業をしているという報告が入った。

 市教委が、本格的に動き始めたのは、13日に入ってからだ。市役所の周囲は、まだ冠水していた。この日、ゴムボートがやっと使えるようになり、学校へ情報収集に出かけた。

 まず、被災していない学校へ行ってみると、驚いたことに、1000人以上が避難していて、ほとんど何も食べていない状態だった。

「学校の避難所を何とかしなければいけない。こういう物資が必要だとか、本来、市教委がやるべき仕事ではないにしても、避難所にいる被災者を助けなければいけなくなり、自衛隊などに連絡を取り、緊急の運搬などから対応していったんです」(山田課長)

 そのうち、遠くから自転車か車などを使って、市教委へ報告にやって来る教師たちが現れた。中でも、雄勝地区の先にある船越小学校からは、徒歩とヒッチハイクで教師が駆けつけた。船越小は、市教委のある市庁舎からは、最も遠い被災校のひとつで、通常の道路で35キロあまり離れた海辺にある。通信も交通も分断された中で、各学校の責任者は、山を越え、時に水の中を進み、市教委まで状況を報告しにいったのだ。そこまでしてでも、駆けつけて報告する義務があったからだ。