願栄寺(青森) 投稿者:@ganeiji  [2019年11月1日] 

「頭を下げる」と「頭が下がる」

 今回は青森県八戸市にある真宗大谷派のお寺、願栄寺の掲示板です。

 道を歩いていても、電車に乗っていても、頭を下げてスマートフォンの画面をのぞき込んでいる人々の姿を見ることが当たり前になりました。こうした光景は日本に限らず、世界のどこに行っても見ることができます。スマホの爆発的な普及によって、頭を下げる時間が飛躍的に延びたことは間違いないでしょう。

 今回の掲示板に関して、投稿者から以下のコメントが付いていました。

 (頭を)下げると下がるは似ているが、まったく違う。下げるは、自分に楽しみや利益があるような話なら嘘でも下げれます。下がるは、自分の損得や好き嫌いを超えたものに触れた時、自分のあり様が照らし出された時に仏教徒なら合掌の姿、そして念仏申す姿です。

 みなさんは「頭を下げる」と「頭が下がる」の違いについて考えたことがありますか?

 「頭を下げる」という行為は相手に対するお辞儀であり、敬意・感謝・謝罪などを表すときに行われます。こうしたお辞儀を日頃から怠らない人は世間一般的に「礼儀正しい」人と呼ばれます。

 以前、内田樹(たつる)さんが『邪悪なものの鎮め方』(文春文庫)という本の中で、邪悪なものを寄せ付けないために必要な資質を3つ指摘しておられました。

 その中の1つが「礼儀正しさ」です。礼儀正しく振る舞うことは、「自分より力のあるもの」に「何かよいもの」を贈ることではなく、自分が傷つかないために「身をよじらせて」攻撃を避けることともおっしゃっていました。結局のところ、「礼儀正しさ」は相手のためというよりも、むしろ自分を守ることに深く直結しているというのです。

 現在、『Think CIVILITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』(東洋経済新報社)というタイトルの本が話題になっているようですが、内田樹さんの意見も含めて考えると、確かに「頭を下げる」ことを怠らない礼儀正しい振る舞いが生存戦略にかなっているといえるのかもしれません。

 ただし、ここでの「頭を下げる」という行為は、あくまでも自分自身の都合に合わせた振る舞いにすぎません。自己の生存戦略にかなった「頭を下げる」行為と自然と「頭が下がる」行為は異なります。

 仏教には「南無(なむ)」という言葉があります。「南無阿弥陀仏」「南無法蓮華経」の「南無」ですね。サンスクリット語の「ナマス」という言葉が元で、「帰依する」という意味合いが含まれています。帰依すべき対象に遭遇したとき、また仏さまのはたらきに気付いたときに、人は自然と頭が下がるものです。

 この連載の初めのころに、「ナム(南無)い心 忘るべからず」という文言の掲示板がありました。昔に比べると大いなるものに帰依して、感謝するという気持ちが人々の間で薄れてきているような気がします。

 「南無」はどの宗教にとっても欠くべからざるものです。「南無」の気持ちを忘れず、生存戦略などを抜きにして、自ら「頭が下がる」姿勢を身に付けたいものです。

「輝け!お寺の掲示板大賞2019」募集を締め切りました。たくさんのご応募ありがとうございました。12月上旬に受賞作を発表予定です。

なお、当連載をまとめた書籍『お寺の掲示板』が9月26日に発売され、さっそく増刷となりました。お手に取ってご覧いただければ幸いです。

(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)