(上)島内鉱山の中枢にあるレンガづくりの総合事務所跡。(中)主力坑だった第二堅坑の坑口桟橋跡。(下)日本最古となる鉄筋コンクリート造の高層アパートがいくつもある。島民は最先端の暮らしを営んでいた。

 3ヵ所目が、日本最古の鉄筋コンクリート造の高層アパート前だ。波の音しか聞こえぬ中で、沈黙したまま立ち続ける姿に見入ってしまうのだった。

 軍艦島は、長崎港の南西約19キロの沖合に浮かぶ無人島で、正式名は「端島」(はしま)という。岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていたことから、「軍艦島」と呼ばれるようになったという。

端島の炭鉱の歴史は1810年に始まる。当時の端島は草木のない岩の瀬にすぎなかったが、島内から石炭が発見されたことで大きく変貌する。1890年に三菱が端島を買い取り、翌年から本格的に海底炭鉱としての操業を開始した。

埋め立てで面積は3倍近くに膨張
最盛期には5267人もが暮らした島

 採掘技術の発展とともに、出炭量は増加。と同時に、人口も急増していった。炭鉱で働く人とその家族、そして、彼らの日常生活を支える人たちである。島には、病院や学校、映画館や商店、郵便局や交番、神社やお寺、パチンコ店などがつくられた。ピーク時(1960年)の人口は5267人にも上った。

 また、島の姿そのものも大きく変貌した。端島は6回にわたって埋め立てられ、規模を拡大していった。その都度、護岸堤防の拡張も行なわれ、島の容貌は大きな岩礁から軍艦に変わった。周囲約1200メートルで、面積は当初の3倍近い約6万3000平方メートルになった。

 こうして外洋に浮かぶ小さな端島は、高層集合住宅が林立する人工島に変身した。ブラックダイヤモンドを産み出す宝の島として、栄華を極めた。住民もまた、命懸けの仕事の代償として、豊かな生活を手に入れた。端島全体が「未来を先取りした島」と持てはやされたこともあったという。

 しかし、端島は再度、激変の大波に見舞われることになる。エネルギー革命という大波である。エネルギー需要が石炭から石油に転換するにつれ、出炭量も人口も激減し、1974年1月15日に閉山を余儀なくされる。

 そして、そのわずか3ヵ月後の同年4月20日、最後まで残った100人が島を離れ、端島は軍艦島という無人島になった。