特集「超訳!学問のすすめ」(全5回)の第1~3回は、漫画で偉人・福沢諭吉の生い立ちをお届けする「福沢諭吉物語」。その第2回は、1858年に江戸行きを命じられる場面から戊辰戦争が勃発した1868年までを描きます。諭吉が「慶應義塾」を立ち上げた年に、上野で戦争が始まりました。その大砲の音が響く中でも講釈を続けた諭吉の思いとは? さらに、漫画の前には諭吉の人物像を浮き彫りにする特別レポートもお届け。お札になるほどの偉人は何を食べて誰を愛したのか。「家族」「食事」「慶應」「交友」の四つのキーワードを基に、日本の近代化を導いた人物の日常を紹介します。
【家族】
子供と孫を愛した
養子は「週刊ダイヤモンド」に連載
理解ある母親に愛されて育った諭吉ですが、諭吉自身も9人の子供や、孫を非常に愛していました。
孫たちからは「福沢諭吉という人は恐ろしく甘い人」「自分の家族には甘い」(『ふだん着の福沢諭吉』)と表現されるほどです。
こんなエピソードがあります。諭吉は娘たちを横浜の女学校に入学させます。そこは生徒全員が外泊のできない寄宿舎に入るのですが、娘に以前ほどは会えないため寂しくなった諭吉は、娘たちを退学させてしまいます。
慶應に幼稚舎をつくったのも、娘を町の学校に出すのが嫌だったからだと孫たちは証言しています。
また、執筆中に子供が部屋で三味線を弾きうるさくしていても怒らず、子供が気を使って弾くのをやめると、「構わないから、やりなさい」と言っていたそうです。
それほど優しいので、障子を破ったようなことでは叱りませんし、手を出したこともなく、子供を呼び捨てにすることさえしなかったといいます。
そして、漫画でも少し紹介しますが、臨終に際して諭吉は孫を呼び、オレンジをむかせて、「半分ずつ分けよう」と言って食べたそうです。そして、その後に「これきり眠ってしまうのかな」と言って亡くなりました。
最後の最後まで劇的な人生を送ったのでした。
ちなみに、福沢諭吉の婿養子で実業家として知られる福沢桃介は、「週刊ダイヤモンド」にコラムを執筆していました。おカネの大事さを説いた諭吉の教えを受けたからか、株式の買い方について指南しています。
【食事】
子供のころから飲酒
みそ汁のだしは謎
諭吉の著書には、食べ物や酒の描写がよく登場します。
現代では考えられないのですが、諭吉は子供のころから酒が大好きだったそうです。何しろ、子供のころ、母親が諭吉の頭をカミソリでそる際、諭吉が「痛い」と言うと、母親が「ご褒美に酒をあげるから」となだめるほどでした。
自分のことを「図抜けた大酒のみ」「牛飲馬食ともいうべき男」(『福翁自伝』)と表現し、それは「赤面すべき悪癖」(同)だと書いています。しかし、何でもいいから飲んでいたというわけではなく、「上等の銘酒を好んで、酒の善し悪しがまことによくわかる」(同)のだとか。
ただし、30歳を超えるころから、健康に気を使い節酒を始めます。どのように節酒したかといえば「まず、朝酒をやめた」というのですから、逆にそれまではどれだけ飲んでいたのだろうかと。
一方で、よくかんで食べるせいで、食べる速度が非常に遅いと自伝で述べています。
食べ物では嫌いなものは卵で、好きなものはみそ汁。特にみそ汁用には山椒みそという辛いみそを取り寄せていて、ショウガや唐辛子など辛いものは何でも好きだったとのこと。
しかし、みそ汁のだしは煮干しもかつお節もダメだったそう。それではいったい何を使っていたのかと疑問が湧きますが、『グルマン 福沢諭吉の食卓』の著書、小菅桂子さんはシイタケだったのではないかと推測しています。
確かに、故郷の中津市はシイタケの産地ですからあり得る話です。