劣等感は、主観的な思い込み
哲人 では対人関係について、ちょっと角度を変えたところから話をしましょう。あなたは劣等感という言葉をご存じですか?
青年 愚問ですね。いままでの話からもおわかりでしょう、わたしは劣等感の塊のような男ですよ。
哲人 具体的に、どのような劣等感を?
青年 たとえば新聞などを通じて同年代の人間が活躍している姿を見ると、どうしようもない劣等感を抱きますね。同じ時間を生きてきた人間があれほど活躍しているのに、いったい自分はなにをやっているんだと。あるいは、友人が幸せそうにしている姿を見たときも、祝福する気持ちよりも先に妬みや焦燥感が出てきます。もちろん、このニキビだらけの顔も好きじゃありませんし、学歴や職業、それから年収など、社会的な立場についても強い劣等感を持っている。まあ、どこもかしこも劣等感だらけです。
哲人 わかりました。ちなみに、劣等感という言葉を現在語られているような文脈で使ったのは、アドラーが最初だとされています。
青年 ほう、それは知りませんでした。
哲人 アドラーの使ったドイツ語では、劣等感のことを「Minderwertigkeitsgefühl」といいます。これは「価値(Wert)」が「より少ない(minder)」「感覚(Gefühl)」という意味です。つまり劣等感とは、自らへの価値判断に関わる言葉なのです。
青年 価値判断?
哲人 自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだ、といった感覚ですね。
青年 ああ、その感覚ならよくわかりますよ。わたしなど、まさにそれです。自分なんて生きている価値すらないんじゃないかと、毎日のように自分を責めてしまいます。
哲人 では、わたし自身の劣等感についてお話ししましょう。あなたは最初にわたしと会ったとき、どのような印象を持ちましたか? 身体的な特徴という意味で。
青年 ええっと、まあ……。
哲人 遠慮することはありません、率直に。
青年 そうですね、想像していたよりも小柄な方だと思いました。
哲人 ありがとう。わたしの身長は155センチメートルです。アドラーもまた、これくらいの身長だったといいます。かつてわたしは──まさにあなたくらいの年齢まで──自分の身長について思い悩んでいました。もし人並みの身長があれば、あと20センチ、いやせめて10センチでも身長が高ければ、なにか変わるんじゃないか。もっと楽しい人生が待っているのではないか。そう思ってあるとき友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴したのです。
青年 ……それはひどい! なんて男でしょう!
哲人 続けて、彼はこういいました。「大きくなってどうする? お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と。たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるのかもしれません。一方、小柄なわたしであれば、相手も警戒心を解いてくれる。なるほど、小柄であることは自分にとっても周囲の人にとっても、好ましいことなのだと思わされました。つまり価値の転換です。いまはもう、自分の身長を思い悩んでなどいません。
青年 ううむ。しかしそれは……。
哲人 最後まで聞いてください。ここで大切なのは、155センチメートルというわたしの身長が「劣等性」ではなかった、ということです。
青年 劣等性ではなかった?
哲人 事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。たしかに155センチメートルという身長は平均よりも低く、なおかつ客観的に測定された数字です。一見すると、劣等性に思えるでしょう。しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。
青年 どういう意味です?
哲人 わたしが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較──つまりは対人関係──のなかで生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。もしも比べるべき他者が存在しなければ、わたしは自分の身長が低いなどと思いもしなかったはずですから。あなたもいま、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているのでしょう。しかし、それは客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。
青年 つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと?
哲人 そのとおりです。わたしは友人の「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」という言葉に、ひとつの気づきを得ました。自分の身長も「人をくつろがせる」とか「他者を威圧しない」という観点から見ると、それなりの長所になりうるのだ、と。もちろん、これは主観的な解釈です。もっといえば勝手な思い込みです。
ところが、主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。
青年 ライフスタイルを選びなおす、というあの議論ですね?
哲人 そうです。われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。そしてわたしたちは主観的な世界の住人である。これはいちばん最初にお話ししましたね?
青年 ええ、18度の井戸水です。
哲人 ここで劣等感のドイツ語、「Minderwertigkeitsgefühl」を思いだしてください。わたしは先ほど、劣等感とは自らへの価値判断に関わる言葉なのだ、という話をしました。それではいったい、価値とはなんなのでしょうか?
たとえば高値で取引されるダイヤモンド。あるいは貨幣。われわれはここになんらかの価値を見出し、1カラットでいくらだとか、物価がどうしたとかいっています。しかしダイヤモンドなど、見方を変えればただの石ころに過ぎません。
青年 まあ、理屈の上では。
哲人 つまり価値とは、社会的な文脈の上で成立しているものなのです。1ドル紙幣に与えられた価値は、ひとつのコモンセンス(共通感覚)ではあっても、客観としての価値ではない。印刷物としての原価を考えるなら、とても1ドル分の価値はない。
もし、この世界にわたし以外の誰も存在しなければ、わたしは1ドル紙幣を冬の暖炉にくべてしまうでしょう。鼻紙に使うかもしれません。それとまったく同じ理屈で、自分の身長について思い悩むこともなかったはずです。
青年 ……この世界にわたし以外の誰も存在しなければ?
哲人 ええ。つまり、価値の問題も最終的には対人関係に還元されていくのです。
青年 すべての悩みは対人関係の悩みである、というあの言葉にもつながるわけですね?
哲人 そのとおりです。
(続く)