200万部を突破したベスト&ロングセラー『嫌われる勇気』。アドラー心理学の入門書である本書が、これほど多くの人に受け入れられた要因の一つに、「哲人」と「青年」の対話の魅力があげられよう。アドラーに精通する哲人と、全読者の代表とも言える悩める青年の対話は、そのまま共著者である岸見一郎氏(哲人)と古賀史健氏(青年)の関係に当てはまる。両氏はいま、200万部突破を記念して全国の書店でトークイベント・ツアーを絶賛続行中だが、それはまさにリアル哲人とリアル青年のセッションと言える。
そこで改めて哲人と青年の対話を楽しみつつ、アドラー心理学の衝撃的な教えをじっくり考えて頂くため、『嫌われる勇気』の重要箇所を抜粋して特別公開する。今回はいよいよ「自由とは他者から嫌われること」だとする本書の中核的な教えをめぐる哲人と青年の激論部分をお送りする。

承認欲求は不自由を強いる

哲人の語りはじめた「課題の分離」は、あまりに衝撃的な内容だった。たしかに、すべての悩みは対人関係にあると考えたとき、課題の分離は有用だ。この視点を持つだけで、世界はかなりシンプルになるだろう。しかし、そこには一滴の血も通っていない。人としての温もりが、いっさい感じられない。こんな哲学など受け入れてなるものか! 青年は椅子から立ち上がり、大きな声で訴えた。

青年 わたしはね、昔から不満だったんですよ! 世間一般の大人たちは、若者に向かって「自分の好きなことをやれ」といいます。いかにも理解者のような、若者の味方のような笑顔を浮かべてね。しかしこれは、その若者が自分にとって赤の他人で、なんら責任を問われない関係だからこそ出てくる、口先の言葉です!
 一方、親や教師が「あの学校に入りなさい」とか「安定した職業を探しなさい」と具体的で、おもしろくない指示をするのは、単なる介入ではありません。むしろ、責任を全うしようとしているのです。自分にとって近しい存在であり、相手の将来を真剣に考えているからこそ、「好きなことをやれ」などといった無責任な言葉が出てこない!
 きっと先生も理解者のような顔をして、わたしに「自分の好きなことをやりなさい」とおっしゃるのでしょう。ですが、わたしはそんな他人の言葉は信じません! それは肩についた毛虫を払いのけるような、無責任きわまりない言葉だ! たとえ世間がその毛虫を踏みつぶしたところで、先生は涼しい顔で「わたしの課題ではない」と立ち去っていくのでしょう! なにが課題の分離だ、この人でなしめ!

哲人 ふっふっふ。穏やかではありませんね。要するにあなたは、ある程度は介入してほしい、自分の道を他人に決めてほしい、というわけですか?

青年 いっそのこと、そうかもしれませんね! こういうことですよ、他者が自分になにを期待しているのか、自分にはどういう役割が求められているのか、そこを判断するのはさほどむずかしくありません。他方、自分の好きなように生きることは、きわめてむずかしい。自分はなにを望んでいるのか? なにになりたくて、どんな人生を歩みたいのか? そんな具体像など、なかなか見えてこない。誰もが明確な夢や目標を持っていると思ったら大間違いです。先生はそんなこともわからないのですか!?

哲人 たしかに、他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。自分の人生を、他人任せにしているのですから。たとえば親の敷いたレールの上を走る。ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。

青年 わたしが他者からの承認を求めるのはそこです! 先ほど先生は神の話をされましたがね、人々が神の存在を信じていた時代なら、「神が見ている」が自らを律する規範になりえたでしょう。神にさえ承認されれば、他者からの承認は必要なかったのかもしれません。しかし、そんな時代はとうの昔に終わりました。だとすれば、「他者が見ている」を頼りに自らを律するしかないでしょう。他者から承認されることをめざして、まっとうな生を送ること。他者の目は、わたしにとっての道しるべなのです!

哲人 他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか。大切な問題です、一緒に考えましょう。他者の視線を気にして、他者の顔色を窺いながら生きること。他者の望みをかなえるように生きること。たしかに道しるべにはなるかもしれませんが、これは非常に不自由な生き方です。
 では、どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか? あなたは承認欲求という言葉を使っていますが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。

青年 わざわざ嫌われたいと願う人間など、どこにいますか!

哲人 そう。たしかに嫌われたいと望む人などいない。でも、こう考えてください。誰からも嫌われないためには、どうすればいいか? 答えはひとつしかありません。常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓うことです。もしも周りに10人の他者がいたなら、その10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。
 しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。これはちょうどポピュリズムに陥った政治家のようなもので、できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。無論、その噓はほどなく発覚してしまうでしょう。そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。もちろん噓をつき続けるストレスも、想像を絶するものがあります。
 ここはしっかりと理解してください。他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に噓をつき、周囲の人々に対しても噓をつき続ける生き方なのです。

青年 じゃあ、自己中心的に、好き勝手に生きろと?

哲人 課題を分離することは、自己中心的になることではありません。むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。親が子どもに勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。これなどは自己中心的な発想以外の何物でもありません。

青年 じゃあ、子どもは親の意向などお構いなしに、好き勝手に生きていいのですね?

哲人 自分が自分の人生を好きに生きてはいけない理由など、どこにもありません。

青年 ははっ! 先生、あなたはニヒリストでありながら、アナーキストであり、同時に享楽主義者なのですね! 呆れるのを通り越して、笑いがこみあげてきましたよ!

哲人 不自由な生き方を選んだ大人は、いまこの瞬間を自由に生きている若者を見て「享楽的だ」と批判します。もちろんこれは、自らの不自由なる生を納得させるために出てきた、人生の噓です。自分自身がほんとうの自由を選んだ大人なら、そんな言葉は出てきませんし、むしろ自由であろうとすることを応援するでしょう。

青年 よろしい、あくまでも自由の問題だとおっしゃるのですね? では、そろそろ本題にいきましょう。先ほどから何度も自由という言葉が出てきていますが、いったい先生の考える自由とはなんなのです? われわれはどうすれば自由になれるのです?