スポーツは、常に「責任」と「主体性」が求められ、練習でも試合でも、これが基盤となっている。ラグビーの日本代表が昨秋のW杯で快進撃を果たしたのは、15人、さらに言えばベンチの控え選手、ベンチを外れた選手までがそれぞれの役割を徹底追求し、やり遂げたからだ。
誰かひとりが自分の役割を逸脱しても、そこに穴が生じ、易々と相手の攻撃を許してしまう。サッカーにしても、11人はそれぞれ役割を持ち、ボールの動き、相手の動きによって刻々と変動する役割と責任を瞬時に察知し判断して最善のプレーを行う。それが見事に連動してファイン・シュートが決まるし、相手の猛攻をはじき返すことができる。
ところが、スポーツ界には必要なそうした厳しさから巧妙に逃れてやっていける政治家たちが、スポーツの感動や真摯な輝きを安易に利用している現実がある。ラグビーW杯が盛り上がり、「ワンチーム」という言葉を政治家も好んで使ったのは記憶に新しい。
私は、例えば小池都知事が「ワンチーム」と言うたびに、激しい抵抗感に襲われた。知事は自分の都合のよいようにその言葉を口にするだけで、ラグビー日本代表がその域に達するまでの努力や苦難を軽視していると感じたからだ。それは賞賛ではなく、冒涜だろう。同様のいら立ちを東京オリンピックの組織委員会会長にも、首相にも感じる。
スポーツもかつては、一度築いた地位に座り続ける権力者を生み出す体質がはびこっていた。それがとくにここ数年のパワハラ告発、指導体制や上下関係の見直しで改善の方向に向かっている。政治の世界はどうだろう。政治家たちは、責任逃ればかりしているように見える。ルールを破り、審判を都合のいい人材に替えることまでやっている。
スポーツの世界で、そんな横暴は許されない。スポーツ界はもっと厳しい。
「責任」と「主体性」を磨き上げ、実行できない選手やチームは試合で勝ち進むことができない。成績が悪ければ、監督は更迭される。プロの選手は解雇される。不祥事があれば辞任や解任は避けられない。居座ることは、許されない。
なぜ政治家ばかりが居座りを容認され、厳しさのない政治家、責任を取る気もない首相の要請に応じなければならないのか。
私は延期や中止はもちろんやむなしと感じているが、スポーツの基本も理解しない政治家に一方的に中止や延期を求められる理不尽を強く感じる。
東京オリンピックは逆に、スポーツの本質を知らず、オリンピックやスポーツを利用している政治家たちによって「強行」を求められているのだ。
(作家・スポーツライター 小林信也)