ここに掲載した絵画は、ルネサンス後期に活躍したヨハネス・フェルメールの《牛乳を注ぐ女》という作品で、典型的な遠近法で描かれています。

牛乳を注げない女と、あり得ないポーズのリアルな男たちヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》1660年、アムステルダム国立美術館、アムステルダム

古代エジプト人たちはきっと目を見張り、こう叫んだでしょう。

「おお、この女性は右腕が短すぎる。肩の大きさもちぐはぐだ。それに鼻がまっ平らじゃないか。脚もないし、目は永遠に閉じられている」
「腕や脚は同じ長さのものが2本ずつ必要だ。指は5本ずつ揃っていなければならない。目はしっかりと見開かれていなければ、死後の世界で永遠に主人に仕えられないじゃないか!」

古代エジプト人にとっては、画家がその瞬間に見たモデルのポーズや移ろう表情を描くなんて、もってのほかだったのです。身体のそれぞれのパーツには必要な長さや個数があり、彼らはそれらの特徴が明確になる向きで組み合わせることで、死後の永久的な生活に耐え得る「リアルな姿」をつくり上げていたのです。

彼らからすれば、遠近法で描かれた《牛乳を注ぐ女》は、まったく「リアル」ではなかったということになるでしょう。

古代エジプト時代は3000年以上続きましたが、そのあいだ、彼らの「リアルさ」の表現方法はほとんど変化しませんでした。

現在、私たちが信じてやまない遠近法は、ルネサンス最中の15世紀にイタリアで確立してから、せいぜい600年ほどの歴史しか持たない描画法です。長い歴史から見れば、「目に映るとおりに写生する」という発想は、決して主流とはいい切れません。

数百〜数千年後には「かつての人々は、遠近法で描かれたものをリアルだと感じていたらしいよ」などといわれる時代がやってきてもおかしくはないのです。

■執筆者紹介
末永幸歩(すえなが・ゆきほ)

美術教師/東京学芸大学個人研究員/アーティスト
東京都出身。武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。
東京学芸大学個人研究員として美術教育の研究に励む一方、中学・高校の美術教師として教壇に立つ。「絵を描く」「ものをつくる」「美術史の知識を得る」といった知識・技術偏重型の美術教育に問題意識を持ち、アートを通して「ものの見方を広げる」ことに力点を置いたユニークな授業を、都内公立中学校および東京学芸大学附属国際中等教育学校で展開してきた。生徒たちからは「美術がこんなに楽しかったなんて!」「物事を考えるための基本がわかる授業」と大きな反響を得ている。
彫金家の曾祖父、七宝焼・彫金家の祖母、イラストレーターの父というアーティスト家系に育ち、幼少期からアートに親しむ。自らもアーティスト活動を行うとともに、内発的な興味・好奇心・疑問から創造的な活動を育む子ども向けのアートワークショップ「ひろば100」も企画・開催している。著書に『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』がある。