わたしも含めて、「ふつう」の育ち方をした者には、わかりえない感覚だ。脳の中で、日・仏・機械語が、時には仲良く、また時にはせめぎあったりするのだろうか。大学は米国で英語の生活。いよいよもって存在が遠ざかっていく気がするが、こういった育ちから、「完全なる翻訳」など不可能であることを悟る。

 さらに、軽い吃音がある。多言語話者だが、時に思考がスムーズに言葉にならない。そこから考える、吃音とコンピュータプログラムのバグの対比。そして、プログラムと違い、デバッグできない吃音。聞いているだけでもどかしくなってくるが、そのもどかしさがこの本の通奏低音になっている。なるほど、そういう人なのかとわかると、前のめりに読みたくなっていく。

 フランスの哲学者ドゥルーズと精神分析家ガタリの「脱領土化」。サピア=ウォーフ仮説として知られる「言語的相対論」と、チョムスキーやピンカーの「生成文法」。フランスの高校で学んだ「正反合」と剣道で習った「守破離」。偉大なる遺伝学者ウィリアム・ベイトソンの息子である人類学者グレゴリー・ベイトソンによる「分裂生成」。さらに、ゲーム理論のフォン=ノイマン、オートマトンのチューリング、ガイア理論のラブロック、生命進化のマーギュリス。

 極めて多岐にわたる名前とその思索が次々と出てくる。聞いたことがあったりなかったりする内容だが、意外なほどすんなりと頭にはいってくる。どれもがドミニク・チェンという存在と渾然一体となって説明されるので、まるで脳の一部がドミニク・チェンに乗っ取られたような気さえしてくる。まんまと罠にはまっていくような快感。

ドミニク・チェンの本職は?
哲学と自叙伝が渾然一体となった一冊

 ドミニク・チェンの本職は、インターネットやAIを用いて穏やかに暖かに他者とつながるためのシステム開発とでもいえばいいのだろうか。その他者には人間に限られず、なんと、ぬか床までも含まれる。紹介されている例のいずれもが、あぁなるほど面白いと思えるものばかりだ。そして、それらのシステムは最初から意図した目的に沿って働いただけでなく、逆ベクトルでフィードバック的にわかってきたことも多い。こんなところにも「対話」だけでなく「共話」があるようだ。

 哲学と自叙伝が渾然一体となった一冊だ。ドミニク・チェンが開発した、入力する内容だけでなくそのプロセスも記録する『タイプトレース』を用いた10分間での遺言作成や、望ましい状態を作ってもらえるように話しかけてくる「ぬか床」、そして、モンゴルでもらった白馬など、紹介したい内容が多すぎるが、きりがない。

 レビューを書くためにパラパラっと本をめくりなおしてみると、円環が意識されているせいだろうか、どこから読み出してもスムーズで新たな発見がある。文体だけでなく構成的にも内容的にも、まれに見る「賢い」本。その魅力をどれだけ伝えられたが不安である。最後に、レビュアー失格と思われるのを承知の上で言い訳を記しておきたい。これほど読んでみなければその素晴らしさがわからない本は珍しい、と。

気鋭の情報学者ドミニク・チェンとは何者なのか?

(HONZ 仲野 徹)