「よく見てくれている」という感覚をつかむ
優秀な人もそうでない人も評価は気にする。人の行動に直接影響する。しかし、評価体系とそれに応じた報酬の工夫だけでは十分ではない。持続的、かつ大幅な行動変革を起こすには、何層にもなった刺激が必要だ。対抗心や競争心、恐怖心や義理、やせ我慢、見栄、プライドなど、誰もが持っている自然な感情を刺激することも大事だ。小さくても達成感を感じられる場面を身近にたくさんつくることも、優れた工夫である。
仲間に馬鹿にされたくない、仲間の負担になりたくない、違ったことをやって仲間はずれにされたくない、というピア・プレッシャーをうまくつくり出す仕掛けも必要だろう。みんな仲間とうまくやっていきたいのだ。
また、ああいう行動ははしたないと誰もが思っているからやらないほうがいい、ということをほぼ無意識に感じながら日常を過ごしている。一種の付和雷同である。
アメリカの大学同窓会やスポーツチームのファンクラブなどに向けたアフィニティ・カードを大量に発行している会社があるが、その会社の個人与信の引っ掛かり率は、普通のクレジットカードのそれよりも低い。それは、仲間であるカード・メンバーに知られると恥をかくことになるからだ。沽券に関わるのだ。「○○○として恥ずかしくないのか……」などの表現は、ある意味、ピア・プレッシャー的な言い方である。
誰かに見られている、組織の片隅で仕事をしているが、誰かがちゃんと見てくれているに違いないという感覚は、どの組織にとってもきわめて大事な要素である。ある会社に、経営側が扱いあぐねている数千人の集団がいた。会社が何をやっても批判的で、その不満を組合に持ち込むというふうで、仕事より組合活動のほうに積極的であった。しかし、個々人に会ってみると経営側が思っているような側面はほとんどなく、良い意味で、まさしく普通の人たちであった。ほとんどが地方出身者であり、東京に友だちや知り合いもなく孤独であり、会社では顔のない一塊の群衆として扱われていた。
個々人は会社に無視されていると思って、そのグループを担当する部門とは話もしない。不満を言いにもこないし、相談にもこない。担当部門は話をする機会がないので、具体的に何が問題かわからない。対処のしようがないから積極的に状況を改善する行動も思いつかず、結果として、無名の群集として扱うという悪循環に入っていた。
この場合の組織デザインとしてのアプローチでは、その集団を小グループ、中グループ、大グループの3層の入れ子構造のグループとして組み立て、それぞれにグループ長を配置した。そして、その3人のグループ長に全員の個別面談をやってもらった。また、「ついでに」という感じで、更衣室のロッカーの配置をアイウエオ順ではなく、グループ別に並び替えた。
ただそれだけで、その集団はじわじわと変わり始めたのである。経営側はこれまでまったく無関心だったが、やっとこんな小さなこと(ロッカーの配置換え)にまで目が向くようになったのかと、いい「誤解」をしたのである。そして、担当部署に話にくる者が少しずつ増え始めた。話を聞いてみると、そんなに過激なことを考えているわけでもなかった。
それを見て経営側は多少の自信を回復し、その集団に対する不信感を捨てて対話の機会を増やしていった。集団の個々人の不満がわかり、対処すると、もっと頻繁に話しにきて不満を言う。たいして難しいことではないので、ちゃんと対応すれば相互信頼ができ上がる、という良循環が回り始め、数年後には経営側が長年、固定観念のように思っていた、扱いにくい集団ではなくなったのである。
とりわけ目覚ましいデザインでもなく、工夫と言えるほどでもない。ただ、個々人を会社側はちゃんと見ている、という基本的なことを実施しただけである。特に、大グループの長は職位としてはかなり高く、普通だと会うことなど期待していないレベルの人であったが、その人までが自分の名前を覚える努力をしてくれているということが効いたのであろう。
このように企業の上層部が、人の顔と名前を大量に覚えていることの効果は大きい。ある会社の人事部長は約3000人の名前と顔を覚えていたが、通常、その一桁少ないくらいの数を覚えればいいのである。比較的簡単なことだが、そういうことを役員が意識的に努力している会社はきわめて少ない。
よく見てくれているということに関して、ある種の人格が存在する場合は、それも活用できる。マッキンゼーの中興の祖であるマービン・バウワーも、そういうタイプの人格であった。マッキンゼーのパートナーという、ある意味、自信たっぷりで我の強い人たちの集団であったにもかかわらず、彼らはいつも、マービンがこれを見たら何と言うだろうか、彼だったらこれをどう判断するだろうか、という感覚を持っていた。彼は60過ぎに引退し100歳で亡くなったが、それまで40年近く持ち続けたのである。