音楽を聴くとき私たちがしていること

鑑賞者と作品との間の自由なやりとりを可能にするカンディンスキーの《コンポジションⅦ》は、まるで「音楽」のような作品だといえます。なぜなら、音楽を聴くとき、多くの人はごく自然に「作品とのやりとり」をしているからです。

わかりやすく考えるために、私自身の話をしましょう。

私は2017年に、フィリピンとニュージーランドへ長い旅に出ました。約1年間にわたる旅が終わるころ、ニュージーランドでの長距離バスのなか、果てしなく続く田園風景に沈んでいく夕日を見ながら「ある音楽」を聴きました。

ザ・ビートルズの『イン・マイ・ライフ』という曲です。「いろいろな場所に記憶があり、それらは決して色褪せることがない。でも、そのどれよりもいまあなたを愛している」という内容を歌ったもので、私が大好きな曲の1つです。

この音楽が自分のなかに入ってきた瞬間、旅のあいだに起こったいろいろな出来事、出会った人々、私を送り出し支えてくれた人のことが想い出されて、胸がいっぱいになりました。
いまでもこの曲を聴くと、そのときの感情がはっきりと呼び覚まされます。

多かれ少なかれ、みなさんにも音楽にまつわる似たような経験はあるのではないでしょうか。

しかし、考えてみてください。

この曲の作者とされるジョン・レノンは、おそらく彼自身の経験や記憶をもとに歌詞を紡いだはずです。それは、彼が生まれ育ったイギリスのどこかの場所や、彼が愛した人のことであったかもしれません。少なくとも、私が訪れた地や、私が大切にしている人たちのことではないはずです。

だからといって、誰も「私の感じ方が間違っている」とはいわないでしょう。『イン・マイ・ライフ』とそれを聴く人との「作品とのやりとり」から生み出される「答え」は、作者であるジョン・レノンがこの曲に込めた「答え」と同じように価値があるはずです。

音楽を聴くとき、私たちは「作者はなにを表現したかったのだろう?」「ここはどう解釈するのが『正しい』のだろう?」「作者の意図がわからないからこの曲は理解できない……」などと考えてばかりはいません。ただ純粋にその作品だけに向き合っている瞬間があるはずです。
このように、音楽の鑑賞においては、多くの人がごく自然に「作品とのやりとり」をしているのです。

しかし、どういうわけか美術作品となると、作品の見方は「作品の背景」や「作者の意図」だけにあると考えられがちです。
鑑賞者による「作品とのやりとり」は軽んじられる傾向があります。作品を見て「う~ん、ちょっとわかりません……」などといっている人は、まさにその典型でしょう。

カンディンスキーは、「具象物を描かない絵」を生み出したことによって、美術の世界における「作品とのやりとり」への可能性を推し進めたのではないでしょうか。

いかがでしょう、ちょっと難しかったですか?

でも、安心してください。要するに、何も知らないとまま美術作品を見たときに、みなさんが感じることは、やはり1つの立派な「ものの見方」なのです。

それは、よくいわれるような「感じ方は人それぞれ」「アートはなんでもあり」という表層的な話ではありません。

むしろ、みなさんの「作品とのやりとり」こそが、作者とともにアート作品をつくり出しているのです。