日本に蔓延る「モノづくり信仰」
という名の迷信

 明治時代には十分にアグレッシブな商人が日本にも大勢いました。最近の日本でも、日本電産の永守さんは十分にアグレッシブですし、積極的な投資も行っています。

 そうなると、敗戦によって大勢の日本人に資本家マインドが広まることは無かったけれども、実は一部の人々にその流れは受け継がれてきたのではないかという考えも成り立ちます。松下幸之助や本田宗一郎など、戦後日本の高度経済成長を支えてきたビジネスの偉人たちは、まさに資本家でしたし、彼らは自社のビジネスをより大きなものにするため、設備や人材に対して惜しみなく投資をしてきました。

 つまり日本人は、決して投資が苦手でも下手でもないのです。それなのに、どうして投資に対する偏見が醸成されてしまったのでしょうか。それは歴史の皮肉というべきかもしれませんが、「東洋の奇跡」とまでいわれた日本の製造業としての成功体験のせいかもしれません。

 1950年に勃発した朝鮮戦争に伴う朝鮮特需を契機に製造拠点としての日本が息を吹き返し、その後の高度経済成長期につながります。安価な労働力と通貨を武器に工業製品を大量生産して先進国に輸出することで、日本は先進国の仲間入りを果たしたのです。確かに、この世界史上稀に見る成功は我々の先達が脇目もふらずに働き、技術を蓄積していった結果であることは間違いないですが、その成功に慢心していたのも残念な事実です。その成功体験に基づく慢心が「モノづくりこそ尊い」という信仰を生み出し、同時に「投資とはいかがわしいものだ」という間違った社会通念を生み出してしまったのだと思います。日本の「モノづくり」は確かに素晴らしいし、それを否定するつもりは毛頭ないですが、モノづくりが尊いのは、顧客の課題を解決するから、顧客や社会に対して価値を提供するからなのです。いわば、モノづくりは価値づくりのひとつの手段に過ぎないと考えるべきです。

 このように、第二次世界大戦に敗れた劣等感とそれをひっくり返した成功体験によってつくられた過度な「モノづくり信仰」のもと、戦後の教育では投資の重要性について教えられることはほとんどありませんでした。資本主義国家であるにもかかわらず、多くの国民は投資の重要性を知らないまま大人になります。教育の分断が起こっているのです。