この5年で音楽業界は激変した。かつて音楽業界の黄金期を築いたCDなどの「音楽ソフト市場」を「音楽コンサート市場」が追い抜き、主役が逆転したのだ。そこへコロナ禍が襲い掛かった。特集『コロナは音楽を殺すのか?』(全11回)は、レコード会社、プロモーター、ミュージシャン、作詞家・作曲家、舞台スタッフ、チケット会社、音楽ジャーナリスト等、さまざまなステークホルダーへの取材を基に「有史以来最大規模の危機」に直面する音楽業界の現状に迫る。#01ではプロローグとして、「音楽ソフト市場」から「音楽コンサート市場」へと主役が交代した音楽業界の現状と、主な7つの要因を振り返る。(ダイヤモンド編集部編集委員 クリエイティブディレクター 長谷川幸光)
地獄絵図と化した
フジロックフェスティバル
「ドアを開けろ!」。シャトルバスを囲み車体を蹴る群衆、バスの排気口に手をかざし温まるカップル、暴風雨に声をかき消されながら同行者の名前を叫び行方を捜す者、ごみ袋を頭からかぶり、なすすべもなく雨風にじっと耐える者。
「温まった人から毛布を返してください!」。運営本部のロッジは避難所と化し、全身にタトゥーを入れた者が裸で震えながら毛布にくるまり、そのすぐ隣にはまだ10代とおぼしき顔面蒼白の若者がぬれたお札を並べて乾かしている。転倒したのか、頭から血を流している女性もいた。
1997年の夏、富士山――。
後に国内の音楽フェスティバル市場をけん引する「フジロックフェスティバル」の第1回が、富士天神山スキー場(当時の名称)で行われた。
開演後、次第に雨足が強まり、間もなく台風が直撃。スキー場を利用した会場には雨をしのぐ場所もなく、夕暮れとともに人々の体温は奪われていった。
駐車場不足による路上駐車が山道をふさぎ、さらに近隣のテーマパーク「富士ガリバー王国」(2001年閉鎖)の開園日とも重なって、麓までの道は完全に交通まひに陥る。移動手段を奪われ、暴風雨と暗闇の山中に残された数万人の人々は、寒さと疲労、ずさんな管理体制に対する怒りと不安により、いつ暴徒化してもおかしくなかった。
視界に入ったシャトルバスの元へ駆け寄り、扉が開いた瞬間に車内へなだれ込む。通常30分の距離を、全身ずぶぬれの人々で「すし詰め状態」のまま、約3時間かけて麓にたどり着いた。人々はこの日、このように運よくバスに乗り込むか、暴風雨の中を自力で下山するか、救護室など屋根のある場所を確保するかして、何とか生き延びた。「生き延びる」という表現は言い過ぎではない。死者が出なかったことが不思議なくらいの壮絶な状況だったのである。
次の日の早朝、泥だらけの人々が横たわる河口湖駅に、2日目の完全中止を知らせるアナウンスが響き渡った。
嵐のフジロックに
可能性を感じた者たち
このように第1回のフジロックは、興行としては大失敗のまま幕を閉じ、主催者であるSMASHへの怨嗟の声は、その後もBBS(電子掲示板)上で長く続いた。
しかし大勢のオーディエンスが「屋外ロックフェス」への失望感を強める一方で、多大な可能性を見いだした者たちもいた。
雑誌「rockin'on」創刊者の渋谷陽一氏、北海道のプロモーター会社に勤務する若林良三氏、そして、参加アーティストのナビゲーターとしてフジロックチームに参加していた清水直樹氏である。後にフジロックと共に「4大ロックフェス」として名を連ねる「ロック・イン・ジャパン・フェスティバル」「ライジングサンロックフェスティバル」「サマーソニック」、それぞれの立ち上げに深く関わる人物だ。