コロナ以降の新しい「仕事の考え方」の指針となる書籍、『どうして僕たちは、あんな働き方をしていたんだろう?』の発売を記念し、その一部を変更して公開します。
同書の著者は、シリーズ160万部超のベストセラーとなった『99%の人がしていない たった1%の仕事のコツ』などの著作をもつ河野英太郎氏。電通、アクセンチュア、IBMなどをへて、現在は急成長中のスタートアップ・アイデミーで執行役員として活躍する河野氏は、何度もその働き方や仕事への価値観を変えてきました。その経験を活かし、過去の「働き方」をBefore/Afterのストーリー形式で振り返ったのち、実際にどうすれば古い働き方を変えられるかというHow Toのアドバイスをしてもらいます。
第1回は、コロナ以降、完全に「古い働き方」の象徴となったハンコがテーマです。

ストーリー・Before編:ハンコを押すためだけに出勤……

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 増田亜希は我慢の限界だった。マスクの内側にこもる息まで、自分から出たものなのに、なんだか腹立たしいほどだった。いつもの在宅勤務から一転、今日の増田は出社するために電車に乗っている。とある書類に会社印を押さねばならないと言われたのだ。

(私はあのハンコを押すためだけに、自分の身を危険に晒しているのか……生命より尊いハンコなんてあるのでしょうか……)

 もっとも、増田が在籍する会社のハンコ文化は、今に始まったことではない。稟議書に上司から押印をもらうためだけに、わざわざ書類を持ってエレベーター前で待ち伏せした日のことを、増田は思い出していた。隣には上司の久岡伸弘もいた。

「あのー……久岡さんの権限でハンコが不要になったりしません?」

「俺がもっとえらくなってから言ってくれ」

「だけど、稟議書を1つ通すのに、ほんと大変すぎじゃないですかね」

「不満もわかるけど、これはこれで必要なんだよ。ハンコってのは、ちゃんと複数人の目を通して、失敗や不正がないかをチェックした、という証(あかし)なんだから」

「私たちがこの10万円の稟議通す前に、どっかのスタートアップが先に商品作っちゃわないといいんですけど……」

 会社の「外の世界」から漏れ聞こえてくるスピード感の違いに、増田は不満を募らせていた。そして、それから半年も経たないうちに、増田の不安は見事に的中したのだった。

(あの時もハンコに振り回されて、今日もハンコのために危険な出社か……)

 増田はマスクのなかで力なく息を吐く。ハンコを押したら、すぐまたこの電車に乗って帰るのだ。

ストーリー・After編:ハンコがなくなり、仕事全体のスピード感がアップ

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「メールで契約書が届きますので、電子署名をお願いします」

 増田亜希は新規顧客との契約に際して、もはや定型文となったメールを、今日も送り続けていた。ハンコ文化が根強かった我が社は、意外にも時代の要請に柔軟だった。監査法人との契約が捺印不要になり、さらにテレワークで紙資料のやり取りが減ったことも追い風に、電子契約への切り替えを実施。折しも、法務省などもテレワーク推進のために「民間における押印慣行の見直し」に関する文書を発表し、契約書に押印しなくとも法律違反にならないことなどを、あらためて周知していた。

 社内稟議についても、小規模な決裁は上長権限で印鑑なしで行えるようになってきた。これまでしょっちゅう顔を合わせて会議ばかりしていたのが、多くの社員がテレワークを実施するようになり、会議の回数自体も減ってきているのだ。

 今日、増田は上司である久岡伸弘と、ビデオ会議をつないで1on1のミーティングをしていた。進捗報告とざっくばらんな相談をしていると、久岡の表情が最近は生き生きしているように感じられた。

「なんだか最近、久岡さん、前より明るくなりました?」

「俺の権限でみんなにチャレンジが促せるから、やる気も出るってもんだよ。責任は伴うが、必要なときに上長権限の決裁を下せる。事業部のスピード感も増したし。ムダな会議とハンコが減るだけでも、ぜんぜん違うもんだな」

「なるほど~!でも、久岡さん、ちょっとそそっかしいんだから、へんな決裁しないように気をつけてくださいよ!」

How To編:ハンコは「遅い会社」「変われない会社」の象徴とまず認識する

 これは、はっきりと言ってしまってもいいでしょう。ハンコひとつのためにリスクを冒すことなど、ほんとうに馬鹿げているといえます。

 コロナショックを契機に、ハンコ文化はすでになくなり始めています。私も某監査法人との契約において「PDFデータのメールを返信いただければ契約成立とみなします」と言われたことで、確かな変化を実感したものです。

 いち早く切り替えられた企業ほど、事業のスピード感も増しているはずです。逆に、もしまだハンコにこだわっているようなら、あるいはハンコ文化が復活したなら、その企業の業績にはきっと悪影響が出てくるはずです。

 大企業とスタートアップを比べたときに、よく語られるのが「スピード感の違い」です。スタートアップが物事を早く決めるのは、他の企業にスピードで負けないようにするという理由が大きいですが、本質的には、時間をかける意味も理由もないからです。

 大企業では承認プロセスが多く、それだけで決裁に時間がかかるのに、年次の高い人の意見を重視するために、そちらの意見から反映させたり、関係者へ説明にまわったりするうちに、時間もムダにかかってしまいます。

 私は大企業をクライアントとして仕事をすることもありますが、普段はメンバーの一人としてスタートアップで働いています。その体感からすると、大企業で1年ほどかけるような内容を、スタートアップなら15分で決めてしまうこともあります。

 たとえば、ある大企業の事例では、業務プロセスのペーパーレス化で議論が始まると、どんどん関与する人が増え、社内政治も絡んでくる。わずかな調整にも週単位、年単位の時間をかけていました。どんどん、話がオオゴトになってしまうのですね。

 これがスタートアップなら、社長を含めた決裁者が責任を持って実施を決めるだけですから、ものの数十分で片がつく。万事がこの調子なので、大企業育ちの私は驚くこともしょっちゅうです(今はもうこのスピード感にも慣れてしまいましたが)。

 大企業でも「決まりだから仕方ない」と慣習に唯々諾々(いいだくだく)と従うだけでなく、変えるべきは変えていかなければいけません。もし、そのままにしておくと、基本的には物事は「遅いほう」に引力が働きます。

 ハンコも不要、承認はオンラインで、見積もりも契約もハードコピーは取らずに進める。会社の生存競争に勝ち残るためにも、上からも下からも社内ルールの変更を推進すべきです。

 一方で、スタートアップで仕事をしている人は、大企業では大企業なりの論理も働いていることも知っておきたいところです。その1つが社内政治といった、ビジネス以外の要素です。生活の安定と自分の出世を得るために、政治を重視する人も確かに存在しますし、今でも重要な価値だとみなされています。ハンコ文化も、その表れといえます。

「事前に話を通すべき人がいる」や「押さえるべき習慣がある」など、外部から見ると首をかしげてしまうような出来事にあうこともあるでしょう。相手の事情も鑑みたうえで、上手に催促することも、大企業と仕事をする際には1つのスキルといえるかもしれません。

 他社と協業したり、対外関係を進めたりする際には、それらの事情を含めた「取扱説明書」を関係者間でつくっておいて、確認し合うことも有効に働きます。担当ベースで、ざっくばらんに話しておくだけもいいでしょう。お互いに作業時間が見積もりやすくなり、社内政治に対しても粛々と向き合いやすくなるはずです。

 とはいえ、全体の流れとしては、やはりデジタル化へ舵を切っていくことに疑いようはありません。たとえば東証一部上場のGMOインターネットグループは印鑑手続きの完全廃止を表明しました。また、ウェブだけで契約締結まで済ませられる「クラウド契約」サービスも広まりを見せ、運営元の株価はコロナショックの最中に急上昇していました。

 あなたが、顧客から紙書類の原本送付を強く求められたら、以下のような文面をメールに貼りつけてみてください。きっと目に見える効果があるはずです。

「こちらは原本というものがなく、印章もシステムで生成した当該PDFを出力するのみです。そのため、SDGs、新型コロナウイルス感染症対策、業務負荷・リードタイム軽減などの社会的要請の観点から、お客様にて出力いただくことにご協力をお願いしています。この点、ご対応可能でしょうか?ご検討お願い申し上げます。

不可能であれば弊社のほうで出力・対応しますのでご指示ください。なお、その場合は事務手数料3000円をご請求いたしますので、悪しからずご了承ください。」